
山内一豊は天文14年(※天文15年の説もあり)、岩倉織田氏の重臣である、山内盛豊の三男(※二男の説もあり)として尾張国に生まれます。姉川の戦いで初陣を飾り、賤ヶ岳の戦いや小牧・長久手の戦いなどで活躍。1600年の小山評定では、東軍西軍のどちらに着くか迷う武将が多い中、所有する掛川城を家康に差し出し、関ヶ原の戦いで東軍として武功をあげ土佐国一国を与えられ、土佐藩の初代藩主となった人物です。

妻・千代の出自は詳しく分かっていませんが、近江国(現在の滋賀県)生まれで、浅井氏の家臣、若宮友興の子である説が有力です。一豊と千代の結婚は、一豊が初陣を飾った1570年の姉川の戦いから、1573年織田氏と朝倉氏が戦った刀根坂の戦いの頃とされています。
一豊は25歳くらい、妻・千代は10代の頃だと思われますから、二人共若い年齢での結婚ですね。

2006年の大河ドラマ「功名が辻」では、一豊を上川隆也さん、千代を仲間由紀恵さんが演じて話題になりました。
一豊が掛川から土佐に入国したのは1603年。それまで長宗我部氏が領主であったため、旧家臣たちと土佐国内での紛争がありました。一豊は有益な長宗我部の旧家臣達を懐柔して登用し、高知城築城の際も影武者と共に争いが起こらないか見回っていました。
高知名物の鰹のタタキは一豊が発祥!?

高知は太平洋沿岸に位置し古くからカツオ漁が栄えていました。高知城を築城し、城下町を整備していた一豊は、皆が鰹の刺身をそのまま食べることで、食中毒にならないか心配します。「皆で一気に食あたりでもしたら、城下町の整備も進まない。
領民を心配して刺身を禁止にしましたが、禁止されても鰹を食べたい領民達のアイデアが勝ちました。結果的に現在も高知の名物として伝わる鰹のタタキ。私も高知へ行く度にいただきますが、塩タタキが本当に美味しいです。この美味しさを味わえるのも一豊公のおかげなのですね!
愛する夫のために、嫁入り金で馬を用意!

一豊がまだ織田家の家臣だった頃、主君の織田信長による「馬揃え」が行われました。馬揃えとは騎馬を集めパレードし、その軍事力を競うもの。一豊は馬売りが連れてきた名馬に心ときめきましたが、馬を買うだけのお金がありませんでした。それを察した妻・千代は嫁入り金として持参した金10両を、馬購入に使ってくださいと一豊に差し出しました。一豊はその10両で馬を買い、馬揃えに参加します。馬揃えのパレードでその名馬は目立ち、信長も大いに感心し、一豊は領地を加増されました。
10両は現在の貨幣価値で約250万円ほど。嫁入り資金として何かあった時のためにと親からもらった10両を夫のために差し出せる妻・千代の良妻ぶりが伝わるエピソードです。
しかし、ここに千代の賢さがあらわれています。ただ欲しいもののためにお金を出してあげるのではなく、馬揃えがどのような行事か判断してのこと。織田家で行われる馬揃えということは、そのパレードの中で、織田家への忠誠心と有力な軍事力をアピールする絶好のチャンス。そこで信長に評価されれば、山内家は安泰なのです。千代の判断は、妻としての判断というよりも軍師的な判断とも言えますね。夫として自分でお金を出せなかったことは一豊も恥じたかもしれません。でもそんなことを気にせずに助け合える夫婦であったからこそ、うまくいったのでしょう。
焼き大根は食べません! お口のエチケット!?

一豊にはこんなエピソードもあります。
秀吉が播磨国の三木城を攻めていたときのこと。包囲軍の将の中に一豊がいました。ある時、家来が焼き大根を持ってきて、一豊にすすめました。しかし一豊は大根を口にしなかったのです。家来が何故かたずねると、「これから秀吉様のところへ行く用事がある。
武将というと無骨なイメージがあるため、口臭など気にしないのかと思っていました。いつ死ぬか分からない戦場だと食べられる時に食べておかないと体力が持たないような気もします。けれど一豊は目上の人に会う時の口臭を気にし、焼き大根を食べなかった。焼き大根ってそんなに臭うものなのか? という疑問も残りますが、現代でもお口のエチケットは大事ですよね。

至近距離でどんなに甘い言葉を囁いていたとしても口臭がキツくては台無しです。煙草の匂いもあまり良いものではありませんね。マウスウォッシュやガムなどを利用して爽やかな息になるよう心がけましょう!
信頼あってこそ!妻からの手紙を開封せずに家康へ!
関ヶ原の戦いの前、千代は大阪で石田三成の監視下に置かれていました。夫のためにと監視の目を盗んでは豊臣の情報を一豊に送りました。妻から届く手紙を不審に思った家康に、一豊は開封せずにその手紙を差し出します。手紙の内容は、「私(千代)は、何があってもかまわないから、家康公に忠義をつくしなさい」という内容。この手紙を読んだ家康は感動し、ますます一豊は出世しました。開封しない手紙、もしかしたら寝返りの文章などを書いている可能性もあるかもしれません。
悲しみを乗り越え、捨て子を育てた二人!

一豊と千代の間には、与祢(よね)という一人娘がいましたが、天正13年の長浜地震で亡くしてしまいました。それ以降、二人の間に子どもは恵まれませんでしたが、ある時、城下で捨て子を見つけます。藁の篭に入れられた捨て子の脇には短刀があり、武士の子だと思われました。二人はその子を「拾」と名付け、亡くした娘の代わりに、実子さながらの愛情をかけて育てました。
世継ぎにすることも考えましたが、捨て子ということが知れ渡っていたため10歳の時に京都の妙心寺に入れました。夫婦は学費としてその時に黄金100枚ほどを用意したと言われています。後に「拾」は、湘南宗化という立派な学問僧になりました。
慶長10年(1605年)に一豊が61歳で死去すると、千代は「拾」こと湘南宗化が住んでいる京都の妙心寺近くに移り住み、余生を過ごしました。元和3年(1617年)千代は京都にて死去。奇しくも夫・一豊と同じ享年61でした。
一豊と千代夫婦のエピソードはドラマにもなるほどですから、やはり千代の良妻ぶりや内助の功ばかりが取り上げられがちです。けれど、離れていても以心伝心、二人の気持ちが通じ合っていたからこそ、山内家、土佐一国を背おった土佐初代藩主・山内一豊があったのでしょう。一豊は側室をもっていません。これも二人に強い絆があったからこそ。
妻が夫を支える形……、というよりは優秀なビジネスパートナーのような関係性が二人の間に感じられますね。これは現代の夫婦間でも参考にできそうです!
(美甘子)