単なる歌手と作詞家の争い……。『おふくろさん騒動』は当初、そんなよくある芸能ニュースの一つに過ぎませんでした。

しかし、作詞家・川内康範がなにやら相当怒っていることなどを、メディアが面白がって報じているうちに、騒ぎが次第に大きくなっていきました。

『おふくろさん』オリジナル版にはない台詞が……


発端となったのは、2006年12月31日に放送された紅白歌合戦でのこと。
森進一は例のごとく、自身の代表曲『おふくろさん』を熱唱。彼にとっては、いつも通り歌ったに過ぎなかったはず。しかし、同曲を作詞した川内康範にとっては、“いつものおふくろさん”ではありませんでした。

なぜなら、自分の書いたオリジナルにはない台詞が、知らぬ間に付け足されていたからです。それはイントロ前に入る「いつも心配かけてばかり いけない息子の僕でした 今はできないことだけど 叱ってほしいよ もう一度…」という短い一文。


すぐさま川内は事情説明を要求し、森もそれを承諾。2007年2月17日に話し合いの場を設けることとなったのですが、森は体調不良を理由にドタキャン。この不義理を川内は遺憾に想い、「もう森に『おふくろさん』を歌わせない!」と激怒したのです。

「謝る理由がわからない」と発言した森進一


そんな荒ぶる川内に対して、森は「あの歌は“森進一のおふくろさん”」「謝る理由がわからない」とコメント。
この不敵な態度が、川内のさらなる怒りを買ったのは言うまでもありません。「人間失格だ!」と感情的に森を痛罵し、両者の亀裂は決定的なものとなってしまいます。

しかしなぜ、森はこんな発言をしてしまったのでしょうか? これには事情があります。
この改変部分の台詞が付け加えられたのは、1977年に大阪で開催された『森進一ショー』において。川内に指摘される30年も前のことです。

当時、この公演で『うさぎ』という楽曲の次に、『おふくろさん』が歌われる予定だったのですが、どうもスムーズに繋がりません。そこで考案されたのがくだんの一節であり、作曲は猪俣公章(『おふくろさん』の作曲者)、作詞は舞台の構成演出をしていた保富康午が担当。
以降、テレビなどでも度々森は、このフレーズ入りで『おふくろさん』を歌うようになります。

さらに、当時所属していた事務所の賛同を得て改変に踏み切ったということも、森が強気に出られた根拠となっていたのでしょう。


森進一、青森の川内邸へ謝罪行脚


けれども、あまりに激高する川内の姿に、事態の深刻さを悟ったのか。森は一転、全面的に自分の非を認めます。

そして、川内に謝罪するべく、一路、青森県・八戸市の川内邸へ。
しかし、テレビクルーを引き連れての謝罪旅だったこと(「みちのくお詫び旅」とマスコミに揶揄された)、カメラが見守る中、持参した「とらやの羊羹」を留守中の玄関前に置くという、パフォーマンスじみた詫び入れをしたことが、またもや川内の逆鱗に触れてしまいました。
「三文芝居」「もう二度と会わない!」と、火に油を注ぐ結果となってしまったのです。

JASRACにより歌唱禁止となった「改変版おふくろさん」


この騒動には一つ、見逃せないポイントがあります。それは、2007年3月8日、川内の要請を受けたJASRACが、森に改変版の歌唱を禁止するという、異例の処分を下したこと。
しかも、その3日後に行われた森のコンサートでは、JASRAC関係者が会場入りして、改変版を歌わないように監視するという動きを見せたのです。

こうした状況もあってか、改変前のバージョンを歌うのは問題なかったものの、川内を憤慨された経緯も考慮して、森は『おふくろさん』及び川内康範楽曲の“封印”を宣言するに至ったのでした。

和解することのないまま、川内は2008年に死去。しかしその後、遺族の了承を得たことにより、森の『おふくろさん』が解禁となりました。この結末も含めて、なんともモヤモヤした騒動だったといえるでしょう。
(こじへい)