80年代から90年代にかけて巨人と西武でリリーバーとして活躍した鹿取義隆である。
87年にはリーグ最多の63試合に投げ、王監督のワンパターン継投の酷使を揶揄した「鹿取(かと)られる」という造語も登場。ポーカーフェイスで毎日言われたところで黙々と投げるキャラクターは“サラリーマンの鑑”と週刊誌で取り上げられ、ちょっとした鹿取大明神ブームが起こったほどだ。
時代はバブル経済真っ只中。「24時間戦えますか」的なバリバリの会社員像を体現する鹿取の姿は、好景気の中で猛烈に働くオヤジたちの共感を呼んだ。
ドラフト外で入団した鹿取義隆
そんな鹿取だが、意外なことにドラフト外入団選手だ。捕手から投手へと転向したのは高知商業時代。さらに名門明治大学では、貴重なサイド右腕として一学年上の法政大学の怪物投手「打倒・江川卓」に燃える日々。
78年秋、卒業したら社会人野球に進もうと思ったら、ドラフト会議終了直後に島岡監督に呼び出され「おまえはジャイアントに行け」と告げられる。えっ、ジャイアント馬場の全日本プロレス?……ではなく、島岡のオヤジはなぜか「ジャイアンツ」を「ジャイアント」と呼んでいたという。
この年の巨人は江川卓を巡る「空白の1日事件」でドラフト出席をボイコット。それでも新人補強をしないわけにもいかず、ドラフト外で声がかかったのが鹿取だったというわけだ。皮肉にも、鹿取は大学時代のライバル江川の存在で大きく人生が変わることになる。
ピッチャー鹿取、ブルペンの柱として定着
そして、結果的にこの鹿取義隆というドラフト外入団の選手が80年代巨人のキーマンになるのだから分からないものだ。
小林繁との交換トレードという形で巨人に加入した江川に対しては、チームメイトも距離を置きがち。
目立たなくても、いないと困る貴重な存在。グラウンド内外で鹿取は存在感を発揮する。
肩ができるのが異様に早い特性を生かし、1年目から38試合に登板。2年目の80年には51試合で防御率1.78の活躍。その後もリリーフ、谷間の先発とどんな仕事でもこなす便利屋は、王監督が就任した84年シーズンからブルペンの柱として定着。
王政権5年間で計275試合に投げ、当時「東京ドームができたら長嶋さんの銅像には『巨人軍は永久に不滅です』と彫られ、王さんの銅像には『ピッチャー鹿取』と刻まれる」なんて風刺漫画が書かれたほどだ。
「30代の転職」を成功させた鹿取
88年限りで王監督がチームを去ると出番が減り、89年秋には藤田監督に自ら移籍を直訴。西岡良洋との交換トレードで西武へ移籍した。
この時期の巨人は斎藤・桑田・槙原の若き3本柱が定着。87年江川卓が引退、88年西本聖は中日へ、89年角盈男が日本ハムへトレード。80年代の巨人投手陣をともに支えた同世代の投手たちが、世代交代の波に飲み込まれ、続々とチームを去っていった。
正直、当時の球界事情では超人気球団の巨人から出されると「左遷」や「都落ち」的な意味合いを感じたという鹿取。
それでも新天地の西武では男33歳、心機一転のリスタート。森監督や黒江ヘッドコーチら巨人OBが顔を揃える首脳陣から重宝され、当時のNPB記録となる10試合連続セーブを含む27セーブポイントを記録し、意外にも自身初となる最優秀救援投手を受賞。
所沢でも“サラリーマンの鑑”は「30代の転職」を成功させてみせた。
今も昔も“サラリーマンの鑑”
プロ野球史上最強とも称された黄金時代の西武の強さは圧倒的で、例えば外野を抜かれたと思った打球でもセンター秋山幸二が余裕で捕球してしまう驚異の守備力に、マウンド上から度々「えっ、マジかよ」と驚愕したという(ちなみに巨人時代のセンターは怠慢守備で有名なクロマティ)。
チームのリーグ5連覇に貢献した鹿取は40歳まで現役を続け、97年限りで引退。プロ19年間で91勝46敗131S、防御率2.76という堂々たる成績を残した。通算755試合登板はNPB歴代9位、もちろんドラフト外入団選手としては史上最多だ。
引退後は古巣の巨人でコーチを務め、06年の第1回WBCには日本代表投手コーチとして恩師・王監督と再会を果たすと見事優勝に貢献。先日の第4回WBCでは侍ジャパンのテクニカルディレクターを務めていたが、大会終了後に巨人が編成部門担当に招へいすることがニュースになった。
今も昔も“サラリーマンの鑑”鹿取義隆。現在60歳、この男に定年退職はない。
(死亡遊戯)
(参考文献)
『救援力 リリーフ投手の極意』(鹿取義隆/ベースボール・マガジン社新書)