口癖の“恐縮です”を連発しながら、ターゲットと定めた芸能人にずんずん切り込んでいく様はスッポンを思わせた。
ワイドショーの命運を左右した芸能レポーターたち
いまや芸能ネタも政治経済ニュースもネットで情報をリアルタイムにゲットというのが当たり前の時代だ。
しかし時代を遡り、1980~1990年代といえば、朝、昼のワイドショーが庶民にとって唯一、“有名人の素行”をリアルタイムかつ詳細に知る手立てといっても過言ではなかった。
こうした、芸能情報提供の立て役者が芸能レポーターたちだ。
彼らの取材ぶりが、ワイドショーの質、ひいては視聴率にダイレクトに影響を与えてもいた。この年代、テレビ業界はまさに「ワイドショー戦国時代」だった。
「恐縮です」と猪突猛進
群雄割拠の芸能レポーターのなかで傑出していたのが梨元勝だろう。それまではどちらかといえば日陰の存在だった芸能レポーターの、職業的地位を確立させるまでに押し上げた人物といっても過言ではない。
芸能レポーターは、芸能人の周辺で隙あらば秘密を暴こうとする姿勢から、ハイエナと例えられることもある。芸能人からすれば、目の上のたんこぶであり、天敵である。
そんな芸能レポーターの中にあって、梨元はジャーナリスト然とした正々堂々とした態度が特徴だった。また、「恐縮です」というフレーズでもおなじみだ。
1968年に法政大学社会学部を卒業した梨元は、同年、出版社に入社し女性誌の取材記者に。10年弱、大衆向けネタの取材経験を積んだ後、その実績をひっさげてテレビ朝日系列のワイドショー『アフタヌーンショー』のレポーターとなる。
ここで、梨元は水を得た魚のように芸能レポーターとして活躍し、着実にキャリアを積み上げていった。
1980年に独立した後は『やじうまワイド』、『スーパーモーニング』といった数多くのワイドショー番組に出演し、レポーターやコメンテーターとして活躍した。
1988年にはなんと、芸能レポーターとしては初めて、客員教授として北海道の函館大学で『芸能社会』の講座を担当するまでになっている。
「稲垣メンバー」の呼び名に激怒
梨元というと、このようなエピソードがある。
2001年、当時SMAPの稲垣吾郎が道交法違反等で逮捕された際のこと。一連の報道では、所属事務所に配慮してか、「稲垣容疑者」という呼び方ではなく「稲垣メンバー」と報じられていた。
これに対して梨元は異を唱えている。さらには、梨元が当時出演していたテレ朝の番組がSMAPに配慮し、「稲垣の件は語らないでくれ」とお願いしたことに激怒。出演拒否に至ったこともあった。
最後まで仕事をしていた梨元
そんな梨元は、2010年に肺がんであることを公表。そして、公表からわずか2カ月後の8月に死去している。65歳の若さだった。
梨元は病床でも取材活動を続け、積極的にTwitterなどで情報発信を続けていた。
そのような執念があったからこそ、数々のスクープを物にしていたのだろう。
(せんじゅかける)