日韓ワールドカップに列島が沸いた2002年。この年、大分県日田郡にある『中津江村』という人口1000人程度の小さな村が、日本中の話題をさらったことを覚えているでしょうか? 

熾烈な誘致合戦を勝ち抜いた中津江村


この山村にまつわる奇妙な物語は、カメルーン代表チームのキャンプ地に選ばれたときから始まります。

W杯開催直前。
当時、全国の市町村では、ワールドカップ出場チームのキャンプ地に選出されることが、地域活性化に繋がる千載一遇のチャンスと考えられていました。そのため、熾烈な誘致合戦が展開されたものです。
宮城県仙台市(⇒イタリア代表)、長野県松本市(⇒パラグアイ代表)、宮崎県宮崎市(⇒ドイツ代表)などが誘致に成功する一方、等々力陸上競技場を市内に持つ川崎市のような有力都市が落選するといった波乱もありました。

そんな激戦を山あいの小さな過疎地が勝ち抜いたのだから、世間が驚くのも無理はありません。かくして中津江村は、「もっとも小さな自治体のキャンプ地」としてメディアで取り上げられ、W杯が始まる前から注目を集めるようになったのでした。

誘致成功を導いた村長の名采配


誘致成功の裏には、当時の村長・坂本休(やすむ)さんの熱心な事前準備があったといいます。
特に力を入れたというのが、グランドにおける芝の整備。芝の微妙な柔軟性・弾力性の違いというのは、ミリ単位の繊細なプレーが要求される一流選手にとって死活問題。まして、芝の状態が劣悪なため、年俸数億円にも及ぶスタープレイヤーが怪我でもしてしまった日には取り返しがつきません。

このような芝の重要性を知った坂本村長は、ただちにグラウンドへの投資を決意。さらには、芝生の造営よりも業者に支払う管理費の方が膨大だとわかった際には、自分たちで管理方法を覚えて実践するやり方へシフトするという、見事な采配をふるってみせます。
こうした坂本村長の地道な努力によって、不屈のライオン・カメルーンは、晴れて、中津江村へやってくることとなったのです。

いつまで経ってもやってこないカメルーン代表


あとは、カメルーン選手団の到着を待つばかり。ところが、来日予定日の5月19日になっても、代表ご一行はやってくる気配がありません。
どうやら、「遅れている」というのです。

遅延の原因は、カメルーンサッカー協会に対して、選手たちが出場ボーナスの増額要求交渉を行っていたためだったとのこと。なんとか協会と決着がつき、チャーター機でフランスのシャルル・ドゴール空港を飛び立った後も、給油地のエチオピアとインドでもたついたり、カンボジアとベトナムの領空通過許可を得ていないせいで足止めを食らったりと、どこまでもグズグズ……。
大らかな気風のアフリカンらしい、時間にルーズ過ぎる珍道中ではありませんか。

こうしたカメルーン代表の一挙手一投足は、ワイドショーや報道番組で連日のように取り上げられました。坂本村長も度々メディアに登場。つぶらな瞳で想い人を待ちわびるその健気さが、日本中の同情を買ったのはいうまでもありません。

今でもカメルーン贔屓な元村長


結局、予定日から5日遅れでカメルーン代表は中津江村へと到着。肝心の試合の方はというと、グループリーグで負けが続き、早々に日本を後にしてしまいました。

しかし、人の縁とは奇妙なもの。この遅刻事件によって中津江村とカメルーンの関係性はより強固なものとなり、2003年には、カメルーン政府から坂本村長へ“友好関係に貢献した”としてシュバリエ勲章が送られたり、代表選手の一人、パトリック・エムボマが引退表明後に中津江村でサッカー教室を開催したりもしました。

坂本村長も“日本のカメルーン人”と自称するほどのカメルーン贔屓に。
村長職を辞した後も、2010年の南アフリカ大会、2014年のブラジル大会は現地へ赴いて、カメルーン代表を応援したといいます。
来年はワールドカップイヤー。きっとまた、ロシアの地で、黄色・赤・緑の三色旗を振る名物村長の姿がテレビで見られることでしょう。
(こじへい)
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