アラフォー以上の方ならば、「悲惨だなぁ」「喜んでいただけましたでしょうか?」などの決めフレーズも記憶にあるのでは? ダチョウ倶楽部や出川哲朗がブレイクするはるか以前のことである。
そんな、いじられキャラの元祖的な存在だった稲川が「怪談の語り部」にキャラチェンジするきっかけとなったのは87年のこと。怪談を語ったカセットテープを発売したのが活動の原点だ。シリーズ2作で11万本のヒット。3作目にも期待が高まったのだが……。
関係者5人が怪死……シリーズ3作目は発売中止に
3作目もレコーディングを終えた稲川の周辺で不思議な現象が相次ぐ。関係者が様々な事故に巻き込まれ、5人も亡くなってしまったと言うのだ。祟りか、呪いか……。これにより、3作目は発売中止となってしまう。
もっとも、このエピソードにより、怪談の語り部としてはこれ以上ない箔が付いたデビューとなったわけだが……。
怪談話に大切なのはやはりライブ感だ。以降、独演会やディナーショー、舞台などが主な活躍の場となる。濃い顔をゆがめ、真剣な眼差しで汗を垂らしながら語る稲川の話術。そこには真贋を超越した、怖さを伝える迫力があった。
護符が付いた怪談CD&お祓いが収録された怪談ビデオで復活
90年代に入る頃にはいじられキャラはほぼ封印され、怪談の語り部の第一人者としての地位を確立して行く。
91年夏、4年ぶりにCD・カセットで怪談集を発売するが、それには前述の不幸を配慮し、護符が同梱されていた。秋には初の監督・主演作となるオムニバスの怪談ビデオを発売するが、こちらはオープニングに神社の神官によるお祓いが収録される徹底ぶりだ。
怪談の安心保証とでも言うべきか。聞き手に対する気遣いであり、怖さの説得力をアップする仕掛けでもある。実に上手いPR戦略だ。
おかげで売り上げは好調、厄除け効果も抜群(?)。その後は不幸にも見舞われずに、稲川の怪談活動は拡大の一途をたどる。怪談ビデオや本のリリースラッシュとなり、95年には怪談を語る全国ツアーもスタートとなった。どの会場も満員御礼なのが凄いが、さらに凄いのは未だに毎年夏に引き続き行われていることである。
「稲川淳二=夏の風物詩」だった90年代
96年には監督・脚本を務める形で映画界にも進出。『リング』に代表される「Jホラー」ブームの中、ホラー小説も発表している。
また、98年には小田急御殿場ファミリーランド(閉業)や大阪ひらかたパークに稲川プロデュースのお化け屋敷が登場。その後も関連するアトラクションが各地に登場したり、ゲームをプロデュースしたりと、怪談をエンターテインメントに仕立て上げて行った。
ワイドショーで稲川が怪談を話すのを見て、夏の始まりを実感するのが90年代あるある。今は舞台に専念しているため、テレビで見ることは少なくなったが、当時は「稲川淳二=夏の風物詩」であった。
稲川淳二の怖さは怪談だけじゃない!?
稲川淳二の怪談は怖いが、その「素顔」も何だか怖い。
稲川は工業デザイナーという顔も持つ。96年には「車どめ」で通産省のグッドデザイン賞を受賞。初期型のバーコードリーダーや新幹線の検札用携帯端末も手掛けたと言うから超本格派だ。
怪談と並行して活動するにはあまりにも世界が違い過ぎるが、とにかく器用なのだろう。
ただ、そのデザイナー気質ゆえか、稲川の書く文字は「フォント」かと思うほどに均一で緻密。携帯もパソコンも待たず、怪談を書き留める際はルーズリーフへの手書きと言うが、事情を知らない方がこのメモ書きを見た場合、その整然と並ぶ文字の配列にゾッとすること必至である……。
得体の知れない稲川淳二の私生活
その得体の知れない怖さは私生活にも及ぶ。
91年の元旦、稲川が仕事を終えて家に帰ると家族が家にいない。そしてそのまま誰も戻って来なかった。以降妻とは別居生活であり、住んでいる場所さえ知らないのだ。
30年近くもの間、会ったのは冠婚葬祭の10回ほど。でも、妻は稲川の所属する事務所の社長であり、給料はちゃんと振り込まれているそうだ。とりあえず、世の中の常識では測れない世界を生きているようである。
稲川は以前「幽霊を見る時は幸福度が増している時」と持論を展開している。何でも「自然体でリラックスしているのに、気が付いたら興奮している状態だから」だとか。
一度も幽霊を見たことがない筆者は幸福度が足りない模様。でもホントに見えたら「ヤだなぁ~怖いなぁ~」(稲川淳二調で)。
※イメージ画像はamazonより真説 稲川淳二のすごーく怖い話 消えた家族 (リイド文庫)