ライター・編集者の飯田一史さんとSF・文芸評論家の藤田直哉さんによる、話題の作品をランダムに取り上げて時評する文化放談。今回は映画『メッセージ』について語り合います。


※公開からだいぶ経ったのでネタバレありでのレビューです。未見または原作未読の方はご注意ください。

原作よりわかりにくくなっている?


映画『メッセージ』言語SFを映像化するむずかしさ
配給:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント

藤田 『メッセージ』は、今、脂が乗り切っているドゥニ・ヴィルヌーヴ監督のSF映画ですね。『ブレードランナー2049』の監督への抜擢でも話題です。原作はテッド・チャンの「あなたの人生の物語」。

飯田 映画公開以降、原作もめっちゃ売れてるみたいですね。

藤田 いまどき珍しく、端整で落ち着いた映像と音響で「魅せる」監督です。『メッセージ』では、なぞの飛行物体と宇宙人との対話が中心ですが、理解できない存在と直面するときの畏怖・恐怖・未知の感じが、映像と音響でうまく伝わっていました。こういう映画は久々に観た感じがします。センス・オブ・ワンダーのある映画でしたね。
 いわゆる宇宙人が攻めてくる『宇宙戦争』とか、あるいは交流する『未知との遭遇』や『ET』などと違うのは、ひたすら言語学的にアプローチするところですね。

飯田 ただ7本足の「ヘプタボット」って名前はどう考えても『宇宙戦争』の3本足「トライポッド」のもじりだし、宇宙人の造形はパルプSFの表紙に出てくるようなタコっぽいし(これは映画版独自の造形ですが)、SFのお約束感は守ってますよね。

藤田 宇宙人の言語を読解していくのは原作の読みどころでしたが、映画版ではいささか単純化されていましたね。
そこはどうですか?

飯田 原作で書いてある「光の屈折」の話とかがないから「なんのこっちゃ」と思う人はそれなりにいるんだろうなと思いました。はしょったせいで、原作よりわかりにくくなってね? と。

藤田 思いっきりネタバレになりますが、光の屈折云々は「時間」に関係する部分ですよね。その部分を、映画版では理屈というよりは、編集と構成で直観的に伝えようとしていましたね。「過去から未来に流れている時間」の外側に出て、生涯を見通せるように、言語の習得によって認識が変わるという部分の説得力を。


言語SFを映像化するむずかしさ


藤田 原作では、言語が「ヘプタポッドA」(音声)と「ヘプタポッドB」(文字)の二重になっているところに解読の鍵があるんだけど、それもなくなっていましたね。対で出てくることの必然性がなくなっちゃってた。

飯田 たんに「あいつらはしゃべってる言葉と書き言葉が違う生物だ」って話になっていた。それは別に地球人の言語だって、ほとんどの地域で、話し言葉と書き言葉が一致した(かのような錯覚を抱いている)のなんて最近ですからね。ヨーロッパなら知識人はラテン語で書いていたし、日本人だって漢文で書いていた、つまり話し言葉と書き言葉が乖離している時代は長かった。

藤田 しかし、これは、伊藤計劃の『虐殺器官』『ハーモニー』の映像化と同じ問題で、「言語SF」を映像化するときにやむを得ない単純化ですよね。小説は字で出来ていますから、仕掛けが効果的ですけど、映画は映像と音ですからね。
 それから、使う言語によって世界の認識が変わるという、サピア=ウォーフ仮説が作中で参照されていました。
これは今では異論がある仮説らしいし、原作よりも単純化したという批判もありますが……

飯田 「虹の色の数が言語によって違う。7色だと思っていると7つ見えるが、5色分しか言葉がない地域では5つしか見えていない。言語によって見えているものも違う」とかいうのがサピア=ウォーフ仮設の有名な事例ですが、認識と言語化することはそこまで直結しないというのが最近の考えだと思います。

藤田 「世界は言語によって構築されているんだ」っていう、「構築主義」的な考えがありますが、どの程度までが言語で変わるのかについての考え方が時代と研究の進展で変わっているわけですね。
 極端なところまで言ったら「現実」「物質」も言語による「構築物」だっていう、『マトリックス』的な世界観になる。そこまでではないんじゃないの、っていうのが、サピア=ウォーフ仮説に対するいくつかの反論の要点でしょうか。
 
飯田 「言葉によって世界の認識が変わる」っつっても世界の分節化の仕方(どう切り分けるか)が変わるだけで、未来も過去も見通せるようになるとかいうのは相当飛躍なんだけど、あれはみんな納得しているんですかね。時制がない言語は地球にもありますしね。

藤田 宇宙人がくれたテクノロジーだからいいんじゃないすかw

飯田 いや、SFだからもちろんいいんだけど、どれくらい納得感があるものなのかなと。
 日本人は「言ったことが事実になる」という言霊信仰が強いから(「縁起でもないこと言うな」というアレですね)、こういう「言葉が世界を作ってる」的な話がすごく好きですよいね。神林長平作品もそうだし、伊藤計劃作品もそうだし。

『メッセージ』は仏教!?


映画『メッセージ』言語SFを映像化するむずかしさ
配給:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント

藤田 日本の影響はあるのかな、とこの映画に感じました。宇宙船がお菓子の「ばかうけ」に似ている、というのではなくて。
ヘプタポッドの言語って、書道みたいですよね。

飯田 パンフレットには禅の文字を参照したとか書いてありました。

藤田 そう、禅画の円相のような図を使ってくるじゃないですか。あれを読解するのって、禅問答みたいで。そして「悟り」を開く(笑) 未来の病気も死も別れも承知しながら受け入れる。正確な「禅」ではないけれど、海を超えて、SF的な意匠になって帰ってきた「ZEN」という感じがしました。
 飯田さんは、仏教を感じたと仰られていましたが。

飯田 釈尊が説いた三世についての考えを想起しましたね。

藤田 ほう。どういうものですか。

飯田 釈尊は、過去や未来にとらわれるなと。当時のインドでは輪廻転生を信じている人が多かったので、そういう人たちに対して「次の生があるならその原因は今にあり、今の生の原因はすぎさった過去の生にあるのだから、今に目を向けなさい」と。
輪廻転生の話を抜きにしたとしても、すぎたことを悔やんでうじうじしたり、未来を不安がったり、死んだあとどうなるか心配してないで今を生きることに目を向けろと。

藤田 ほう。マインドフルネス的な。

飯田 釈尊は「未来は確定している」という考えは否定したと言われていますので、正確には『メッセージ』とは違うわけですが、主人公の認識としては「過去も未来もわかったら、むしろ今に目を向けて生きようと思った」ということなので、似たような話だなと。
 ただこういう話は仏教にかぎらずありますよね。ニーチェの永劫回帰思想もある意味、似たようなものでしょう。

藤田 ニーチェの永劫回帰思想とは似てますね。人生は、全く同じものが無限に繰り返す。変更はできない。だから今を必死で生きろ……的な側面に関しては。


クラシックSFのエッセンスを感じさせる


映画『メッセージ』言語SFを映像化するむずかしさ
配給:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント

藤田 原作と比べると、過去と未来を見通す視点を持った、すなわち決定論的に自己の人生を把握できてしまう人間がどうするのかという主題の側面は後退していましたね。「将来に起こる悲劇は、分かっていても、飛び込むのだ」っていう、愛の物語がむしろ強調されていた。

飯田 やっぱり『幼年期の終わり』のバリエーションだと思うんですよ。
『幼年期の終わり』だと、人類を超越する高次元の知性であるオーバーロードの手下のオーバーマインド(これも地球人よりははるかに高次の知性)のカレルレンが地球にやってきて、人類を進歩させる手助けをするけど、オーバーマインド自体は進化の袋小路に取り残されると。カレルレンも自分たちの命運は知っていて振る舞ってるわけでしょう。『メッセージ』の主人公はカレルレン的な存在ですよね。

藤田 カレルレン的に認識を進歩させられてしまうわけですね。

飯田 「現生人類が高次元知性体と接触して進化するぜー」的な単純な話だと頭悪く見えるし、「人類は支配される」って話だと世知辛い。進化の階梯をのぼるけれども哀しみもあるという『幼年期の終わり』的な落としどころは、バカっぽくなく、感動もできるといういちばんおいしいパターンですよね。ディスってるみたいに思われると、それは違います。僕はSFのオールタイムベストは『幼年期の終わり』ですし、「あなたの人生の物語」もすごく好きですから。ただまあ、仕掛けとしてはそうでしょう。

藤田 『幼年期の終わり』を書いたアーサー・C・クラークが、スタンリー・キューブリックと共同で脚本を書いた『2001年宇宙の旅』とすごく似ていると思ったんですよ。昨日見返していたら、黒い「モノリス」に接触して人類が進化していくところはそっくりで。異星人が人類を進化させにやってくるところも。
未知の存在を、図像と音響(リゲティのレクイエム)で現すところも。

飯田 さっきも言ったように、クラシックなSFのお約束をあちこちで踏まえていて、その懐かしさ込みでオッサンは泣くしかないわけです。

藤田 時間の認識に関しては、カート・ヴォネガットの『スローターハウス5』ですね。映画版とも小説とも似ていた。過去から未来に流れる時間にとらわれている人間は、前しか見えないトロッコに固定されているようなものであって、高次元の存在にとっては、時間の流れは、ぼくらにとっての「左右」ぐらいのものだ、という認識をヴォネガットは書いていた。そういう認識の「時間」「人生」を描くチャレンジとしては参照されるべきですね。

飯田 ヴォネガットとの比較は町山智浩さんも言ってましたね(パンフにも寄稿しています)。

藤田 クラシックSFを踏まえつつ、「今っぽい」のは、「辛抱強く対話する」か「軍事行動をとるか」の対比が描かれ、前者が重要視されているところでしょうね。宇宙から来たものとすぐ戦闘するハリウッド映画全般にカウンターを食らわしているようなところがあります。「辛抱強く対話し、理解することが、平和と理解に繋がる」という『メッセージ』の「メッセージ」は(原題はもちろん"Arrival"ですが)、現実の政治的状況を踏まえて発せられたもののようにも感じます。

飯田 「攻撃しろ!」とか言っちゃう国が出てくるのもお約束だしさ。映画の中での中国のバカ扱いはひどいけど、これもお約束的に誰かしらああいう「びびって戦闘的になる」役回りは担わないといけないわけで。しかし、ヘプタボットの字が禅っぽいという話だったけど、禅はもともと中国発祥なので、禅的な中国(道家―禅的中国)と中国軍人の闘争と対話を描いた話とも読めますね。

藤田 少し前に映画化されたオースン・スコット・カード『エンダーのゲーム』の続編の『死者の代弁者』の要素も感じましたね。異星人が人間を殺害したのをきっかけに、戦争になりかけるんだけど、丹念にその行動の意味を知ろうとする。文化人類学的SFですね。
 そのさらに続編が『ゼノサイド』(異なるものの、虐殺)。SFは、未知の存在をどのように描くか、どのように交流するかを通じて、実は人間同士の問題を扱っている部分があるわけですよね。

飯田 ゾンビ映画でも人間同士の醜い争いの方が目立つのと似てますね。
 本当に高次の知性が地球に来たら、人間が虫を見るようなもので、支配すらしないと思います。シンギュラリタリアンもよく言ってますよね。「汎用AIが進化したら人類は支配されちゃうんじゃないか」という脅威論に対して「悟りを開いた知性があらわれたようなものなので、低次の知性である生身の人類のことなどどうでもいいはずであって、支配対象にする必要がない」とかって。そういう意味で『メッセージ』は現実的だなと。虫側は必死になるところも含めて。

藤田 人間の子どもは虫を攻撃しますけどねw

結婚、子育てと『メッセージ』


飯田 ところで藤田さんは最近結婚されたそうですが、新婚として観るとどうなんですか?

藤田 「先の予想がついても飛び込む」ってのは、まぁよくわかるというか。合理的に不合理を選択する、という感じですよね。でも、結婚なり出産なりって、むしろ現実では「予想がつかない人生」に飛び込んでいく感じじゃないですか。『メッセージ』の場合、全部予想がついているわけですよね。

飯田 どうですかね。結婚はともかく子作りに関してはそもそもいろんなリスクを引き受ける、何があっても受け入れる覚悟がなかったら僕は作ってないですね。未来が決まっていようが決まってなかろうが、子どもとはいっしょに過ごす時間を大切にするに決まってるだろと僕は思いました。

藤田 悦びも別れも、子どもの病死も分かっている。分かってても、選ぶ。それがどういう気分なのかは、分からないです。時間の前後、人生の一回性の外にいる人間にとってのそれがどういうものなのかを想像させるのがキモなんでしょうが。「生んで三年後に重病で死ぬ」とか分かってても受け入れますか? 出生前診断などで、それはリアルにありうる話だと思いますが。

飯田 生物はいつか死にますからね。親子にしろ夫婦にしろ、絶対どっちかが先に死ぬ。その未来は確定している。未来はなんでもかんでも未確定じゃなくて、あるていどは定まってますよね。たとえば日本だったら少子高齢化状態でこのさきの人口動態はわかっている。ここからもしどうにか出生率がV字回復としても当分は生産年齢人口が減るという未来は決まっている。その上でどう生きるか、どう捉えるかという意味では『メッセージ』の主人公と僕らは何も違わない。何も違わないから響くのだと思います。

藤田 どうなんだろうかな。実際の時間の流れの中にいる人間にとって、未来はポジティヴにもネガティヴにもなりうる「未知」じゃないですか。そこの差はあるんじゃないでしょうか。
原作は、母親が子どもに語りかける構造になっていましたよね。映画版ではその意味が少し分かりにくくなって「あなたの人生の物語」というタイトルでもなくなってしまいましたが。あの側面については、親としてどうですか。

飯田 親は子に何か残したい、語りたいと思うものなので、主人公の気持ちはよくわかります。エゴですけどね。僕自身は親の言うことなんか聞きたくなかったので、そんなことしても自己満だなと思っていてやっています。わかっていてもやるのが人間の性でしょう。
 子どもが健康に育ったとしてもいつまでも同居してるわけでもないし、同居していても生まれてすぐみたいに一日中ずっといっしょなんてことはなくなって家の外で過ごす時間が長くなり、親以外の人間からの影響が強くなっていくのは避けがたく起こる(そのていどには未来は決まっている)ことなので、だからこそ子どもと過ごす時間を大切にしたいというのは普通に毎日思ってますよw

藤田 なるほど、いい話ですね。
 あの映画は、決定論的な結末ですけれど、そこに至るまで、というか、未知のエイリアンからテクノロジーをもたらされるところは「未来にはどんなことが起こるかわからない、一番ベースと思っているところも変わりうる」という想像力を喚起する映画だと思うんですよね。ハイデッガーの「投企」に近い感覚。その二重性が構造としてあるのが、面白いし、深みを生んでいるな、と思いました。
 その上で、「世界が存在し」「時間が流れている」という、映画の最もベーシックな性質に対するの感動を引き出すことに現代でも成功している。それが出来る、現在で稀有な才能なのではないのでしょうか。その描き方が、観客にある人生観や宗教観を伝達する。すごい才能です。

飯田 「未来はわからないから今を大切に生きよう」と「未来は決まってるから今を大切に生きよう」は結論(振る舞い)は同じなのでは、と思わされたのが、個人的には発見と言いますか、非常におもしろいところでした。


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