「井口引退か…。あぁ自分ももう若くはないんだな…」

野球ファンは気が付けば甲子園の高校球児が遥かに年下だったり、自分より年上のプロ野球選手が徐々に減っていくのを見て、己の年齢を実感する。


20日、球界最年長野手の42歳井口資仁がロッテの本拠地ZOZOマリンスタジアムで会見を開き、今季限りでの現役引退を表明した。

96年ドラフト1位の逆指名でダイエー入団後は、小久保裕紀、城島健司、松中信彦らとともに王ダイエーの主力選手として活躍。05年にMLBのホワイトソックスへ移籍すると、同年にはチャンピオンリングも手に入れ、「メジャーで最も成功した日本人内野手」と称される。
そして09年にロッテで日本復帰した井口は、13年に当時楽天の田中将大からホームランを放ち日米通算2000安打も達成してみせた。

ドラフト前には激しい争奪戦が


96年ドラフト前の激しい争奪戦は今でも語り草だ。青山学院大学で東都大学リーグ記録の24本塁打を放ったショートストップに対して、まだ逆指名ドラフト全盛期の球界ではダイエー、巨人、中日といった各球団の間で熾烈な獲得合戦が繰り広げられた。

巨人はアトランタ五輪に出場する井口に対して、現地での飲み食い用にクレジットカードを渡したと一部で報じられ、寝業師・根本陸夫を擁するダイエーは井口の実家近くに新たに開店するコンビニの権利を譲り渡したと囁かれた。

まさに現代なら完全アウトの何でもありの仁義なき争奪戦。最終的に井口は青学の3年先輩・小久保裕紀がいたダイエーを逆指名してプロのキャリアをスタートすることになる。

恐るべきフィジカルモンスター井口資仁


もちろんその才能は幼少時代から別次元の凄さで、自著『二塁手論』の中では、第一章の最初の2ページでいきなり「自分は大人になったら確実にプロ野球選手になるものだと思っていた」「運動に関して僕は友達の誰よりも優れていたと思う。体力とか運動能力のテスト結果が、東京都内で3位より下になった記憶はない。同年代の子供の中で自分より野球が上手い子供は見あたらなかった」とサクッと記述。

まさに恐るべきフィジカルモンスター、天才野球少年。井口が書くと全然嫌な感じがしないどころか、読んでるこっちも「そりゃあそうだろうな」と納得してしまう。


二塁手転向……5年目のブレイクスルー


プロ入り後はデビュー戦で満塁弾とド派手なことをやってのけるが、20代中盤までの数年間は2割台前半の打率に20本塁打前後で「恐怖の9番」と呼ばれる日々。
荒削りのプロスペクトといった立ち位置だったが、転機は4年目にやってくる。この年、左肩の故障で54試合しか出場できなかった井口は、ファームにいる時に島田誠コーチから「同期入団の松中や柴原を追い抜くにはどうしたらいいと思う? 何でもいいからタイトルを獲るんだよ」と尻を叩かれる。

と言っても、当時のパ・リーグはまだイチローがいたので首位打者や最多安打は厳しい。本塁打にも4年間こだわった結果、この現状だ。ならば狙うは盗塁王しかない。さらに時を同じくして、この00年秋のキャンプで二塁手転向を打診される。正直、セカンドコンバートはショートというポジションにプライドを持っていたため、嫌でたまらなかったという井口は、守備練習で二塁手の奥深さに魅せられ考えを改める。

こうして、攻撃型遊撃手として“日本のアレックス・ロドリゲス”を期待された男は、二塁手&盗塁王とモデルチェンジをして5年目の01年シーズンにブレイクスルーを果たすことになるわけだ。

二塁手転向……5年目のブレイクスルー


01年には140試合フル出場を果たし、NPB史上3人目となる30本40盗塁を達成(他の達成者は張本勲、秋山幸二)。03年にも打率.340、27本、109点、42盗塁で01年に続き2度目の盗塁王を獲得。さらに両年とも二塁手としてGグラブ賞も獲得している。
まさに現代で言えば、トリプルスリー山田哲人クラスの00年代を代表する二塁手である。


今思えば、00年秋の二塁手転向が井口にとってのターニングポイントだった。遊撃手にこだわっていたら、その後のメジャー挑戦もまた違った形になっていたのではないだろうか。
井口は自身の二塁守備について自著の中でサクッとこう振り返っている。

「確かにメジャーの二塁手は上手かったけれど、こいつには負けるという選手にはついに出会わなかった。客観的に見て、自分よりも上手く一、二塁間への打球を処理できる二塁手はいなかったし、自分より速くゲッツーを奪える二塁手も見たことがなかった」

井口資仁、恐ろしい男である。


(参考文献)
『二塁手論』(井口資仁/幻冬舎新書)
『西武と巨人のドラフト10年戦争』(坂井保之+永谷脩/宝島社)
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