1992年1月26日、大阪国際女子マラソン――。

スタート直前の長居陸上競技場(大阪市)には、全国から熱い注目が集まっていた。
この年の夏に開催される、バルセロナオリンピック・女子マラソン日本代表の有力候補だった松野明美が出場するためだ。代表枠3名のうち、すでに山下佐知子が内定しており、残り2名をめぐって熾烈な争いが繰り広げられていた。

そんな中、一歩リードしていたのが松野だった。のちに松野は、日本陸上競技連盟から「大阪国際で日本記録を出せば、何位でも代表にする」と極秘に通達されていたと語っている。

しかし、レースは誰もが予想しない展開を見せる。このレースは、松野明美と有森裕子の20年に渡る確執を生み、小鴨由水という天才ランナーの競技人生をつぶしてしまう結果となる。

波乱の大阪国際女子マラソン


そしてスタートが切られた。レースは初マラソンで20歳の新人・小鴨由水が終始トップで進んでいき、なんとそのまま優勝してしまう。

小鴨は、陸上に詳しいマニアでも名前を知る人は少ない無名選手だった。「こかも」という苗字を、アナウンサーが終始「こがも」と実況していたことが当時の状況を物語る。
小鴨が大阪国際に出場した理由は、所属するダイハツのエースである浅利純子のペースメーカー・風よけのためだった。しかし浅利は36キロ付近で失速してしまう。小鴨は残り6キロを自由に走り、先頭のままゴールする。
タイムは2時間26分26秒。日本新記録だった。ちなみに当時の日本記録は大阪国際に出場していない有森裕子が持っていた。

この結果に日本中の誰よりも驚いたのは、おそらく2着に入った松野だった。松野は、有森の日本記録を更新してゴールしていた。新人の小鴨と違い、松野は10000メートルでソウルオリンピックにも出場した一流選手であり、「大阪国際で日本記録を出せば、何位でも代表にする」という条件を計算通りにクリアしたはずだった。
しかし設定していた日本記録そのものが変わってしまった。

心無いファンの暴挙……心が折れてしまった小鴨由水


大阪国際の結果を受け、日本陸連は小鴨をバルセロナオリンピック代表に選出する。そして最後の1枠には、国際大会での経験と暑さに強いという理由で有森が選ばれた。

経験は豊富だがタイムを持たない有森と、タイムはあるが経験のない小鴨という両極端の選手が選ばれたことで、マスコミからは日本陸連の選考基準のあいまいさが指摘された。
そして、有森の所属するリクルートや、小鴨の所属するダイハツに誹謗中傷の電話や手紙が送られてくるようになった。

新人の小鴨はここで心が折れてしまう。先輩の風よけで出場したマラソンで優勝し、新星ヒロインとマスコミで騒がれ、オリンピック日本代表に選ばれ、いやがらせの手紙が送られてくる。
この間、わずか3か月。20歳の小鴨はプレッシャーに耐えられなかった。

バルセロナオリンピック・女子マラソンの結果


小鴨は代表辞退を何度も訴えるが、監督や家族がなんとかなだめ、バルセロナオリンピックのスタートラインに立った。しかし準備不足が影響し、29位に終わる。

バルセロナオリンピック後、小鴨はわずか21歳で現役を引退する。初マラソンで日本記録をたたき出した天才ランナーは、2度目のマラソンであるバルセロナオリンピックで競技人生を終えた。

一方の有森は、ロシアのエゴロワとデットヒートを繰り広げ、銀メダルを獲得する。最初に代表に選出された山下は4位だった。

松野・有森・小鴨、皆が深く傷ついた……


――出場できなかった松野は、有森の銀メダルを素直に祝福したと伝えられている。松野だからこそ、オリンピックの銀メダルがどれだけ偉大なことか理解できたのだろう。
しかし、松野と有森は2011年にテレビ番組で対談するまで、プライベートでも公式でも顔を合わせることはなかった。再会まで、実に18年の歳月を必要とした。

その対談で、有森は「私の方から避けていた」と語っている。松野に「私だったら金メダルが獲れた」と言われることが怖かったのだ。


出場できなかった松野も、29位に終わった小鴨も、そして銀メダルを獲得した有森さえも、みな深く傷ついていた――。

今も続く、日本陸連の選考基準への不満の声


バルセロナオリンピックから25年たった現在も、日本陸連のマラソン代表選考には不満の声が大きい。

2020年東京オリンピックに向け、日本陸連はより明確な選考基準を発表した。予選的意味合いのレースを数本指定し、そこから選ばれた選手が決勝戦的意味合いのレースに出場し、一発勝負で2名を選考。残り1枠は、その後の指定レースの中で最速タイムを出した選手が選ばれる。

陸上ファン、そしてなにより選手が納得できる代表選考が実現することを期待したい。

※文中の画像はamazonよりBARCELONA OLYMPICS―栄光と感動のバルセロナ
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