歴史は繰り返される。

日本ハムの大田泰示がついに二桁本塁打に達した。
ドラ1スラッガーとして期待された巨人時代は8年間で9本塁打だったのが、今季55試合で10本塁打だ。ようやく1軍選手として花開きつつあるハイブリットモンスター。

素質は高く評価されながら巨人では目立った成績が残せず、移籍をきっかけに開花した外野手と言えば、庄司智久の名前を思い出すオールドファンも多いだろう。

ロッテへトレード移籍……新天地で活躍した庄司智久


新宮高校から71年ドラフト3位で巨人入りすると、77年にはイースタンリーグで首位打者、本塁打王、打点王、最多安打、盗塁王となんと五冠獲得。それでもまだV9戦士が残る1軍外野で満足な競争すらさせてもらえず、80年にはロッテへトレード移籍。

元イースタン五冠王は移籍2年目の81年には、1軍の主力選手として127試合で率.293、10本、63点、17盗塁と活躍。オールスターにも選出された。現代の大田泰示と同じく走攻守三拍子揃った外野手が9年目の移籍により心機一転のモデルケース。歴史は繰り返されたわけだ。

ロッテを支えた絶対的エース・村田兆治


そして、この庄司がロッテに移籍した頃の大エースと言えば、村田兆治である。

68年、ロッテにドラ1入団すると、数年かけて「マサカリ投法」と呼ばれるフォームを独学で習得。155キロの剛速球に加え、相手チームの先輩投手から盗んだ落差の激しいフォークボールという投球スタイルで、8年目の75年には9勝12敗13セーブ、防御率2.20で最優秀防御率と最多セーブのタイトルを獲得。
76年には21勝、防御率1.82で2年連続の最優秀防御率に。81年には19勝で最多勝に輝いた。


いわば、お世辞にも強豪チームとは言えなかった昭和のロッテを支えた絶対的エースである。

古き良き時代のプロ野球を体現した男


村田のそのエースのプライドは強烈で、山田久志(阪急)や東尾修(西武)といった同時代のパ・リーグの大エースたちをとことんライバル視して、彼らとゲーム前に顔を合わせた時に次回の登板予定を聞き出し、自軍の監督やコーチに直接対決をできるようローテーションを組んでもらったという。

侍同士が斬り合うかのような投げ合いに生き甲斐を見出す、古き良き時代のプロ野球を体現した男。

そんな剛腕も82年5月に右肘を痛め、翌83年夏にロサンゼルスのジョーブ博士のもとで手術。当時の常識では利き腕にメスを入れたら終わりと囁かれる中、村田は不屈の精神でリハビリを続け、見事カムバックを果たす。

著書で明かされたありえない特訓とは?


元々、村田はやると決めたらとことん突き詰める求道者タイプだ(その真っ直ぐさが原因で球団とぶつかり、トレード騒動へと発展したこともあった)。

自著『剛球直言』の中で明かされたありえない特訓の数々が凄まじい。
フォークボールをマスターするために、水をたっぷり入れた一升瓶や特注の鉄アレイを指に挟んで持ち上げるなんて序の口。
さらに眠っている時間がもったいないとベッドに入る直前に、指の間にテニスボールを挟んでテープで固定。「しびれと痛みで夜中に何度となく目が覚めてしまった」って、いや当たり前ですやんと突っ込まずにはいられないクレイジーさ。

新しいものをどんどん取り入れる一面も


この「昭和生まれの明治男」と言われた愚直なスタイルは右肘手術後のリハビリでも変わらなかった。
投げられない欲求不満をランニングとダッシュにぶつけ、外野フェンス沿いに「我慢、忍耐、辛抱、根気」と呟きながら走り、驚いて振り返る若手投手には「ただ今、我慢中だ!」と大声で声をかける。

これらのエピソードを知ると、超面倒くさい先輩と思いがちだが、村田が凄いのは頑固一徹な一面と同時に、後輩選手たちを「頼もしい。私たちの世代にない長所を持っている」と認め、新しいものも否定せずどんどん取り入れる柔軟性も持っていたことだ。
まだ肘を冷やすのはタブーとされていた頃、球界で誰よりも早く投球後のアイシングを取り入れ、ウエート・トレーニングも積極的にこなす。
そして、85年に劇的な復活を遂げるわけだ。

最後まで貫いたエースの美学と自身の生き方


毎週日曜に先発する「サンデー兆治」として11連勝を含む17勝を挙げ社会現象に。
すでに30代の中盤から後半に差し掛かろうとしていたが、89年には通算200勝に到達。この年、オールスターMVP、さらに自身3度目の最優秀防御率のタイトルも獲得した。40歳で迎えた90年も10勝を挙げながら現役引退。

余力を残しながらマウンドを去るエースの美学にこだわり続けた。
最終年も剛球とフォークは衰え知らずで、クローザーとしてならまだ数年はやれるという声には、「数イニングスの闘いだけで終えるリリーフ役に転じるのは私の美意識にそぐわない。マサカリ兆治のイメージを崩さずに引退することが私のダンディズムの極致」と最後まで自身の生き方を貫いた。

昭和から平成、60年代から90年代まで剛球を投げ続けた男。村田兆治は2016年の始球式で、66歳にして球速131km/hを記録している。


(参考資料)
『二軍史 もう一つのプロ野球』(松井正著/啓文社書房)
『剛球直言』(村田兆治/小学館)


※文中の画像はamazonより哀愁のストレート―もっと速い球を!
編集部おすすめ