人によって理由・動機はさまざまでしょうが、日本人俳優がハリウッドに挑戦するという話は、これまでに何度も耳にしてきました。しかし、継続的に話題作へ出演するほどの成功を収めた人物となると、渡辺謙や真田広之など、ほんの一握りです。


工藤夕貴……。彼女も「国際派女優」として、日本国内で認知された存在なのは間違いありません。

12歳の時にスカウトされて芸能界デビュー


60年代のヒット曲『あゝ上野駅』で知られる歌手・井沢八郎の娘として、工藤が生を受けたのは1971年のこと。芸能界入りは12歳の時に、渋谷でスカウトされたのがきっかけでした。

デビュー直後から、TBSの音楽番組『ザ・ヒットステージ』やチキンラーメンのテレビCMなどに出演していた彼女は、1984年に漫画家・小林よしのりが脚本を書いた映画『逆噴射家族』で女優業へ進出。同時に、本作の挿入歌『野生時代』を歌い、アイドル歌手としてもデビューします。

バラエティ番組にもよく出演していた


当時といえば、ちょうどアイドル全盛の時代。従来の正統派アイドルだけではなく、バラエティ番組で弄られる「バラドル」のはしりも、ポツポツと出始めていた時期でした。

そんな過渡期に登場したせいもあってか、工藤は音楽番組で可愛らしく歌ったかと思えば、『ひょうきん族』の「ひょうきん懺悔室」で頭から水をかけられて「うらめしやー!」と叫ぶなど、正統派とバラドルの中間のような存在として人気を集めたものです。

ハリウッド挑戦を決めた工藤夕貴


順調にアイドル活動を続ける一方、相米慎二監督の『台風クラブ』(1985年)で主演起用されるなど、若手演技派女優としても注目されていった工藤。

しかし、本人の中には「日本にいては、アイドルの枠を超えられない」との葛藤もあったのだとか。そんな折に知ったのが、ハリウッドの存在。アカデミー賞女優でさえ、新人と一緒にオーディションを受けるという実力主義社会の中、果たして自分の実力がどこまで通用するのか……。そんな好奇心から、ハリウッド挑戦を決意したといいます。

『ラッシュアワー3』などにも出演


そこから、まったくしゃべれなかった英語の猛勉強を開始。1989年には、ジム・ジャームッシュ監督の『ミステリー・トレイン』(1989年)への出演が決定。
この時、自分から監督へ直接電話で出演交渉をしたというから、当時弱冠18歳にして、そのバイタリティたるや恐るべしという他ありません。

これ以降、工藤は国際派女優としての道を突き進みます。『ピクチャーブライド』(1995年)、『ヒマラヤ杉に降る雪』(1999年)で主演起用されたり、話題作『ラッシュアワー3』(2007年)に出演したりもしました。

アメリカでは生活苦からバイトも


けれども、ハリウッド映画全体で、わずか5%ほどしかないといわれる「アジア人枠」を獲得するのは至難の業。そのため、工藤は米国に拠点を移し、オーディション活動に励むのですが、落選することも多かったようです。
『チャーリーズ・エンジェル』のオーディションでは最終まで残るも、あと一歩のところでルーシー・リューに敗れたとの逸話も残っています。

なかなか演技の仕事が入ってこないため、バイトをいくつも掛け持ちして貯金を食いつぶすという、日本では考えられない苦しい生活も経験したそうです。

現在は農業も行っている工藤夕貴


このように映画の本場でたくましく揉まれた工藤は、10年ほど前に日本へ帰国。今では、富士山を望む土地に豪邸を建てて、半農・半芸の悠々自適な生活を送っているのだとか。

若いうちは、日本とアメリカを股にかけてさまざまなことに挑戦し、40過ぎてからは仕事と趣味のスローライフ……。多くの人が憧れる、理想的な人生を描いていると言えるのではないでしょうか。
(こじへい)
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