新日本プロレスの勢いが止まらない。
2011年度には11億4,059万円だった新日本プロレスの売上高は、今期37億円を超える見込みだという。
5年で約3.7倍と、驚異の躍進だ。

長い低迷期を知っているプロレスファンとしては、本当に感慨深いものがある。特に「暗黒期」とまで称されるドン底を見て来たものとしては……。
そのドン底の象徴こそ、05年1月4日の東京ドーム大会「闘魂祭りWRESTLING WORLD 2005」の第7試合で行われた「アルティメット・ロワイヤル」ではないか?

あまりの酷さに、筆者も一度はプロレスを見限ったものである……。

「作り試合禁止」!? 新日本プロレスが手を出した総合格闘技路線


その悲劇の前兆となったのが、03年5月2日に東京ドームで開催された「アルティメット・クラッシュ」だ。
当時は格闘技人気に押され、観客動員が減少し始めていた時期である。そこで、新日本プロレスも時代のニーズに沿って総合格闘技、当時でいう「バーリ・トゥード(VT)=何でもあり」の試合を導入することになる。

しかし、それは通常のプロレスとVTとを明確に区別して同じ興業で行うという、前代未聞の試みだった。
VTルールの試合ではロープが3本から4本になり、リングもスプリングを外してクッション性をなくすように調整された。しかも、ルールには「作り試合禁止」が盛り込まれ、大々的に発表されていたのだから、ある意味堂々のカミングアウトである。

PRIDEに比べ低クオリティ! しかし、確かな可能性はあった


この年の初頭、総合格闘技の雄「PRIDE」を運営するDSEの森下社長が自殺している。この混乱に乗じて、当時の新日本プロレスは総合格闘技のシェアを奪おうとしていたのだろうか……?

ともかく、VTルールで行われたのは全5試合。
観戦した当時のPRIDEヘビー級王者、エメリヤーエンコ・ヒョードルは「『PRIDE』と比べ試合のクオリティが低い」とバッサリ切り捨てたが、プロレスファン的には思った以上に面白かった印象だ。

正直、総合格闘技黎明期を思わせるような10年遅い内容だったが、何が起こるかわからない刺激にあふれ、今後の可能性を感じたのは間違いない。

今やWWEの“スーパースター”にまでなった、当時24歳の中邑真輔の快勝劇もあり、やり方次第では、新日本プロレスの凄みを見せつけるだけの内容になったのかも知れないが……。

「どこを見ればいいんだ!」失笑がもれる混迷のリング場


そして、問題の「アルティメット・ロワイヤル」が開催される。
東京ドームというビッグイベントながら、目玉カードが決まらずに二転三転する迷走状態の中、オーナーであるアントニオ猪木の強権発動で生まれた特別な試合形式である。

猪木いわく「総合格闘技のバトルロイヤルであり、1番危険なルール」とのこと。
猪木は大真面目に提唱したようだが、さすがに無理がありすぎる。そして、内容を詰めていった結果、さらに混沌としたことになってしまうのであった。

ざっくり言うと、8名の選手が参加し、なぜかひとつのリングで同時に2試合の総合マッチを行い、トーナメント形式で勝ち上がって行くというもの。
横で行われている試合には干渉できないのだから、バトルロイヤル要素は皆無。そもそも、同時に試合をする意味がまったくない。

こうして書いていても意味不明なのだから、観客にとってももちろん意味不明。真横の攻防を気にしながら戦わなければならない参加選手たちも、混乱しているのがはっきりとわかる有様だった。
テレビの実況でも「どこを見ていいのかわからない」と偽らざる本音を暴露。
反則をめぐって、レフェリーが3、4人も同時にリングに上がる場面もあり、本当に何がなんだかわからない状態。会場は冷え込み、失笑がもれる始末だ。

しかも、VTルールの延長上に生まれたのにも関わらず、「作り試合禁止」のルールは一体……となってしまうのだから、タチが悪い。

ぶっちゃけ、総合格闘技人気に便乗しただけの茶番劇だった。
試合に参加した(させられた)永田裕志は、試合前から「絶対に無理だろう」と思ったという。ちなみに、この試合のオファーを受けたのは2日前だったとのこと。……ご愁傷様でした。

現・新日本プロレスオーナー木谷会長は「途中で帰りました。それは、あまりにも“格闘技もどき”だったからです」と、当時を振り返る。
この冷静な視点がある限り、新日本プロレスが同じ過ちを繰り返すことはないだろう。

ただ、昭和のプロレスファンからすると、思い付きで現場に混乱を招きまくっていた猪木体制の「毒」が恋しいときがあるのも事実ではある……。

※文中の画像はamazonより新日本プロレスリング NJPWグレイテストミュージックV
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