私がカミングアウトしない理由 LGBT全員がセクシャリティを公表する必要はない
画像はイメージ

今年、アメリカに続きドイツでも同性婚が合法化された。日本でも東京・渋谷区をはじめLGBTのカップルにパートナーシップ証明書を発行をしたり、一部の大企業でLGBTダイバーシティ研修などが行われるようになるなど、いわゆる“LGBTブーム”が巻き起こっている。



カミングアウトしないという生き方


私はLGBTと呼ばれる人間の1人で、ゲイだ。都内で記者や編集の仕事をして生計を立て、同性のパートナーと一緒の家で暮らしている。恋愛対象や性的指向(嗜好ではない)が男性であるだけで、どこにでもいる20代半ばの男だ。

今現在、私は妹とごく親しい友人数名のみに自身がゲイであることをカミングアウトして生きているが、「ゲイである」ことをオープンにして社会生活を行っていない。特に、仕事関係では異性愛者であることを装って生きている(ちなみに「毎熊 岳」という名前はこのコラムの執筆のために名付けたペンネームで、普段は本名で記者活動やライター活動を行っている)。

“LGBTブーム”が起こっている日本で、なぜあえてゲイであることを隠して生きるのか、その理由をいくつか説明したい。


LGBTに偏見のある人もいる


まず一番の理由は、LGBTに偏見や不快感を持っている人がいるということが挙げられる。欧米と違ってあからさまに暴力をもって攻撃されるケースは日本では少ないと思うが、それでも偏見に基づく差別を受けたり、悪く言われたりする可能性があるというのも事実だ。もちろん偏見や差別を是正するためにセクシャリティを公表して戦うという生き方もできるのだが、「普通に会社に行って、仕事して生きている」人間なので、そうした「LGBTに権利を!」といったような活動にはちょっと足を踏み入れたくはない。

誤解されないように記しておくが、LGBTの権利獲得のためや差別に対抗するために活動を行っている方々は素晴らしいと思う。ただ、私のように「普通に生きている」だけのLGBTは後述する問題などもあり、なかなか素性を明かしてそうしたLGBTの権利を主張するような社会的活動に身を捧げることが難しい。

私はあえて「自分はゲイです」とアピールしなければ「ゲイ」だと思われないため、無用なトラブルを避けるためにカミングアウトをしないという方法をとっている。


良くも悪くも「尖った人」と思われる


LGBTに好意的な感情を持ってくれている人だったとしても、(おそらく本人にとってはいい意味で)偏見を抱えている人もいる。

ゲイに限って言えば「ゲイはファッションセンスが良くておしゃれ」や「ゲイの人は女心がわかるから恋愛相談が得意」といったような偏見だ。テレビで活躍するオネエタレントや海外ドラマに出てくるゲイの男性などのイメージから、ゲイにこうした印象を持っている人もいるだろうが、たとえゲイであろうと性的指向が男性に向いているだけで、他の部分は異性愛者の男性と変わらない。
LGBTの人たち全員が「辛口コメントで世間をバッサリ切るコメンテーター」や「コミカルな発言でバラエティ番組を盛り上げつつも、メイクの腕は確かなメイクアップアーティスト」になれるわけではないのだ。

以前、モデルの栗原類さんが自身の発達障害を告白したとき、とあるインタビューで「スティーブ・ジョブズやエジソンなど、発達障害者は天才だと美化されている印象を受けるが、実際に発達障害を抱える人は僕のように天才でも何でもない人が大半」と語っていたのを読んだことがある。それと全く同じことで、LGBTだからといって何か「尖った」部分があるとは限らず、大半の人間は平凡に生きている。

メディアで見かけるLGBTは「尖って」いるからこそメディアに取り上げられるわけで、「LGBTであるから」尖っているわけではないのだ。平々凡々なLGBTである自分は、カミングアウトをすることによって「尖っている」と期待されるのを恐れている部分もある。


仕事の幅が狭まる可能性がある


これは職業によると思うのだが、カミングアウトをすることによって仕事の幅が狭まる懸念がある。先ほど書いた「尖った人を期待される」話に通じるものだと思う。

私は普段、芸能や舞台・映画の記事やゲーム記事などのカルチャー系のほか、企業インタビューやイベント取材など幅広い分野で執筆をさせていただいている。仮に仕事関係で「ゲイである」とカミングアウトをするとなると、今までの仕事の実績や私の人となりとかバックグラウンドとか、そうしたものを一切無視して「ゲイという属性しか持っていない人」として見られてしまう可能性がある。

“LGBTブーム”のさなかということもあり、「LGBTの視点で書いてほしい」やLGBT関連の仕事の依頼が増える可能性もあるが、私は前述したように別に「LGBTだからこそ」の尖ったものなどを持っているわけでない一記者である。

昨今はLGBTをメインに取り扱っているウェブメディアなども増えてきてはいるが、「LGBT」を飯の種にできるほど仕事量はなく、LGBTの枠の中でいえば私よりも尖った人たちはたくさんいる。なので、そういった仕事よりはもっと現在の仕事の延長で記者・編集者としてスキルアップを望める仕事を優先的に受けていきたい気持ちもあり、あえて仕事関係ではカミングアウトすることを避けている。


隠す人にはその人なりの事情がある


上に書いてきたようなことは、あくまで「私の場合は」という話だ。
もっと違った事情があってカミングアウトすることをあえて避けて生きている人もいるだろうし、カミングアウトして生きていきたいけれど様々な事情があって「今は黙っている」人もいるだろう。いずれにせよ、「カミングアウトして生きる」よりも大切にしたい現状があるからこそ、彼らは自身のセクシャリティを隠しているわけで、第三者が勝手に他者のセクシャリティを暴いたり詮索する権利などない。学校や職場なり家庭なり、彼らが居たいと望む居場所を奪いかねないからだ。

“LGBTブーム”や同性婚合法化への動きなど、LGBTを取り巻く社会情勢は目まぐるしく変わっていっているが、私はセクシャルマイノリティの全員が全員自身のセクシャリティを公表して生きていく必要はないと思う。人それぞれ事情があってのことなので、LGBTであることを隠したい人にはその人なりの「隠したい事情」があるのだから、そっとしておくべきではないかと思う。

これは別にLGBTに限ったことではなく、家庭環境だったり経済状況だったり、誰しも「人に詮索されたくない、隠しておきたいこと」は持っているものだ。本人が隠しているのであれば無理やり暴いたりすることなく「人それぞれ」と受け流す土壌ができたとき、LGBTのみならず日本で生きている人々全員が生きやすい社会に一歩近づくのではないだろうか。
(毎熊 岳)
編集部おすすめ