「めんつゆで料理する女性とは付き合えない!」男性がこじらせた“被依存欲”

「料理にめんつゆを使う女とは付き合えない!」という男性の発言がTwitterで話題になっているようです。

Twitterで検索しても、上記の意見に対する批判的なツイートが膨大なために、元ツイートを発見することはできなかったのですが、めんつゆを使って料理する女性に対してダメ出しをしている男性のアカウントは、実際に数名発見することができました。
どうやら「手抜きするなんて女として失格」と考えているようです。

43年間変わらない「私作る人、僕食べる人」文化


「めんつゆは優れた調味料なのに使うのが悪いことのように言うほうがおかしい」「めんつゆを使っているかいないか判別できるほどの舌を持っているのか」のような批判が最も多かったようですが、それよりも問題なのはやはり「性別役割分担意識」と「手作り至上主義」でしょう。

日本では男性だけが「彼女に作ってもらったら嬉しい料理は?」と聞かれ、結婚相談所の情報でも女性だけが得意料理を書かされます。1975年に“炎上”して放送中止になった味の素のCM「私作る人、僕食べる人」の時代から、メンタリティが全然変わっていない人たちがいまだにたくさんいるのですから驚きです。

日本人男性の家事育児分担率が世界でも最低であることが少子化を招いている主たる原因の一つになっていることは周知の事実だと思いますが、43年の歳月が経っても役割意識が変わっていないのですから、それも頷けます。今回のケースでも、料理に関する指摘以前に、「自分は男だから作ってもらって当たり前」というそのスタンスが、まず批判の対象となるべきだと思います。

THE日本男児はただの「コミュ力が低過ぎる人」


「めんつゆだろうが何だろうが男なら出されたものに文句を言わず食べるべき!」という反論を加える人も散見されましたが、結局はこれも「私作る人、僕食べる人」の思考回路のままに過ぎません。

出すほう出されるほうという役割分業をするから、舌に合わない味を無理に食べなければならないシチュエーションが生まれます。それを避けるためには単に一緒に作れば良いだけです。また、一緒に作れば、話し合いをする中で、「自分はもう少し〇〇にしたいんだけど」と提案することも十分可能です。

「男は文句を言わずに食べるべし!」というのは日本男児の美学と思っている人もいるのかもしれませんが、「擦り合わせ」や「利害調整」というコミュニケーションを活性化することで、二人の関係をより良いものにして行くことが出来ていないわけですから、単に「コミュ力が低過ぎる人」に過ぎません。

手間暇かけることは愚かでしかない


また、性別役割分業と同様に問題なのが、「手作り至上主義」「手間暇賛美」でしょう。

「料理にめんつゆを使う女とは付き合えない」と主張するのは、「うちに遊びに来るのに車を使う男とは付き合えない!何時間もかけて歩いて来てくれないと嫌!」と言うのと構図が全く同じです。それくらい愚かなことを言っているのですが、とりわけジェンダーが絡むとその愚かさが分からなくなる人が一部にいるようです。

日本よりも女性役員比率の高い東南アジアでは屋台文化が発展し、調理を手抜きすることが主流ですが、日本では「時短」の意識や文化がキャズム(=一部の意識の高い人々の間で流行している段階と、世間一般に遍く広がる段階の間にある大きな溝のこと)を超えません。


結果、日本は労働だけではなく、家事も世界一の長時間労働大国に陥っているわけなのですが、やはりこの背景には母親“だけ”に対する「手作り至上主義」「手間暇賛美」の抑圧が大きいことも影響しているのだと思います。


「被依存欲」や「被服従欲」をこじらせた男たち


それにしても、何故彼らは既製品を用いることを「手抜き」として批判し、手間暇かけた手作りを執拗に賛美するのでしょうか? 

おそらく時間をかけてくれたことが自分への愛情のバロメーターだと彼らは認識しているのでしょう。ですが、本当に彼らが求めているのは、愛情なのでしょうか? 私にはそうは思えません。

私ならめんつゆを使って料理は早く済ませて、もっと見つめ合って会話をしたり、イチャイチャする時間に充てたいと思いますし、そういうダイレクトなコミュニケーションこそが愛情を確かめ合うための最も重要な行為だと思うからです。これは子供でも同じだと思うのですが、基本的に無駄な作業は手抜きしまくった上で、パートナーや子供と一緒にいる時間を大切にすることこそ第一義的な愛情だと思います。

結局、彼らが望んでいるのは、愛情でも何でもなくて、「依存」や「服従」です。「自分にもっと依存して欲しい」「自分に服従の姿勢を示して欲しい」という「被依存欲」「被服従欲」があり、それを計ることが出来るKPI(≒物差し)として、「自分を犠牲にして時間をどれほどかけてもらえたか」という時間量を用いているわけです。

逆に、上記のようなダイレクトコミュニケーションによる愛情表現は、「依存」や「服従」の量を計測するKPIにはなり得ませんから、愛情を求めていない彼らはそこにさほど興味が湧かないのでしょう。

長時間労働とママ自己犠牲の裏にある「依存の要求」


この精神構造に陥っている日本人は少なくありませんが、必ずしも恋愛のケースだけに限りません。

たとえば、先月2月に炎上した「のぶみ」氏の歌詞「#あたしおかあさんだから」のように、母親に子への自己犠牲的な態度を求めるのは「イエ」に対する服従を求めています。一方で毒親化した母親自身も、子ども(とりわけ娘)に自分に対する依存を求めています。また、部下に対して「夜遅くまで頑張って働いていて偉いな」と長時間労働を評価するのは、上司やカイシャへの服従の姿勢を評価しています。

ちなみに、支配されるほうもこの考えに染まり、「全然寝られなくてもカイシャのために頑張っている俺スゲー」「子供のために自分のやりたいこと犠牲にして頑張っている私って偉い」のように、「被服従自慢」や「依存関係への陶酔」をしてしまうのです。


日本社会は「共依存的な関係」から決別を


このような「共依存的な関係」が生まれる背景には、両者の人としての本質的な自尊心の低さがあります。
本質的な自分が弱いからこそ、「自分にもっと依存して欲しい」「自分に服従の姿勢を示して欲しい」と願い、誰かを支配して服従させることで弱き自我を保とうとしているわけです。依存するほうは言わずもがな。

もちろんそのような状態は決して健全とは言えません。未熟であることは当然のこと、そのような関係は結局のところ、お互いを苦しめるだけです。

ところが困ったことに、不健全であるという認識を持つ人が、同調圧力を重視するこの日本社会には圧倒的に少な過ぎます。ですので、まずは「手作り至上主義や手間暇賛美は依存や服従の要求であり弱い人のすること」という常識を作っていくことが重要ではないでしょうか? そういうことを知った上でしっかりとしたパートナーシップを構築する恋愛もできるのだと思います。
(勝部元気)
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