第5週「東京、行きたい!」第28回5月3日(木)放送より。
脚本:北川悦吏子 演出:土井祥平
連続朝ドラレビュー 「半分、青い。」28話はこんな話
東京に行きたい鈴愛(永野芽郁)の気持ちを賛成する仙吉(中村雅俊)と草太(上村海成)、賛成か反対かわからない宇太郎(滝藤賢一)、寂しがる晴(松雪泰子)。
先に進む子どもと立ち止まる親との葛藤が描かれた。

津田雅美の少女漫画を庵野秀明がアニメ化したもの(98〜99年)。エンディングが「夢の中へ」のカバーバージョンで、彼氏と彼女のうきうき夢気分いっぱいだった。
夢の中へ
「競争の世界でやっていけるわけない」という晴に、鈴愛は言う。
「漫画は競争の世界やない 夢の世界や」
「私は夢の種を手に入れたんや」
喫茶ともしびで、鈴愛の進路問題について楡野家3代男子が語り合うとき、店内には、斉藤由貴の「夢の中へ」(89年)がかかっていた。
仙吉は、この年になると先がわかると、「先がわからんっていうのは最高に贅沢な気がする。夢は見てるだけで贅沢や。夢を見てる時間だけでも元とれるな」と言う。
夢を見るのは若さの特権。それがたとえ叶わなくても。
本物にこだわる秋風羽織
秋風羽織(豊川悦司)は、岐阜に行った菱本(井川遥)から五平餅と鈴愛の家の情報を受取る。
「この味は本物です」と五平餅にむしゃぶりつく。
秋風のこだわりが、ホールで座る席を例にして語られる。
サントールホールで座る席が決まっている。
「評論家たちはこぞってセンターに座る」がそこはじつは音を聞くのに最良の場所ではなく、秋風は、音が最もよく聞こえる席を選んでいるらしい。
「弦楽器と管楽器のバランス 直接音と間接音のバランス…」と薀蓄を語る秋風。
本物にこだわる男は、おそらく、夢だけで生きているわけではないだろう。
また、完璧な音のバランスを自分の作品に落とし込んでいる(なにせメトロノームで漫画のリズムを徹底管理している)秋風と、音が半分聴こえない鈴愛とが、東京でどういうふうに関わっていくのが、それこそ先が見えないから楽しみだ。
はたして鈴愛に才能はあるのか
晴は和子(原田知世)に、鈴愛の漫画を見せて相談する。
「おもしろかった」「私は才能あると思う」という和子。秋風羽織ファンである和子だから少女漫画を見る目はあるのだろうけれど、これまで、律(佐藤健)に対する極度な贔屓目を晒しているため、あまり信用できない気がする。
ただ、原田知世演じる和子は、心配性の晴と対称的な溺愛母という立ち位置としては申し分ない仕事をしているといえるだろう。
金八先生の「このバカチンが」もかなり仕上がってきている。
「ふつうはもっと臆病」「この街から東京に出ていく女の子なんていないもん」という台詞にぐっとくる人もいると思う。
毒母になりそうなキワキワの晴
第5週の晴は、近年、ドラマでも描かれるようになった“毒母”キワキワ。
89年「夢の中へ」を歌っていた斉藤由貴も、17年、NHKのドラマ10「お母さん、娘をやめていいですか?」で娘にべったりの毒母を演じて高評価を得ている。
松雪泰子も、娘を手元に置いておきたいばかりに、うっかり発言を連発する晴を熱演。
農協がおじいちゃんのコネだったこと、左耳が聴こえないことを履歴書に正直に書くから就職試験に落ちる など、言わなきゃいいのに、ということを言って、鈴愛の感情を逆なでしてしまう。
だが、「半分、青い。」では、晴を一方的な毒母としては描かず、娘が大好きで心配で心配でたまらない一心(「おかあちゃんは寂しくてたまらん。3つ 5つ 13歳のあんた全部いる」)で、彼女のその寂しさにも寄り添う。
突き詰めると、晴と鈴愛はどちらも自分の思いを大事にして、一歩も引かず、その思いを主張するとき、相手を傷つけてしまうような言葉を吐くところが似ている。
これは、80年代、女性が社会進出をしていくようになったときの、ひとつの傾向だろう。ここまでしないと、
いままでの狭い「家庭」という世界から出ていけなかったのだ。そこに、この時代を舞台にしたドラマとしてリアリティーがある。
「あの子に負けたと思った」という晴の台詞で、晴が、主人公と母というドラマの設定を超えて、晴は晴で自分のドラマの主人公として立っているのを感じた。
とはいえ、子どもが親を超えていくのは宿命。鈴愛は、母を超えて、東京へ・・・。
男の人たちが、ほんとうにおとなしい
鈴愛と晴は言いたいことを存分に言う一方で、男の人たちは控えめだ。
27話のレビューで、律が周囲の期待に応えようとしているが実際のところ本人はどう思っているのかについて書いたが、楡野家男子三人の話し合いでは、草太が「俺語らせてもらっていいの?」と言い、姉と対称的に自己主張しない子だった、とナレーション(風吹ジュン)される。
宇太郎は、妊娠した頃からずっと晴のやりたいことをやればいいというスタンスで、いつも、晴を見守っている。「落ちたのはそのせいかわからないけどな 本当のところは」と片耳が聞こえないことで就職試験に受からないとは言い切れないと、別の見方を示唆する。
律、草太、宇太郎の役割から、男性の草食化はこの時代からはじまったと考えると、興味深い。
鈴愛が自転車が苦手だったわけ
自転車が苦手、という台詞が17話で出て来たが、単にバランスがとりにくいからかなと片付けていたら、過去に自転車に乗っていて事故に遭った話が語られた。
鈴愛がうまく生きられなくても、梟町のみんなが優しくカバーしてくれていた。「こんな優しいとこ あの子は離れて どうやって生きてく?」と晴は心配で心配で。
こういう、あとから、実は・・・と明かされるパターンは、民放の連ドラによくある。
もっとも「実は・・・」は物語の構成のひとつのパターンでもあって、それが生かされやすいのが、民放の連ドラだ。CMをまたいでもチャンネルを変えさせない、次週次週へ見続けさせるため、意外な展開が前提で作られてきた。しかも、制作状況も慌ただしく、ときにはオンエア当日に出来上がったりするくらいで、台本もギリギリまで書いていることがある。視聴者の反響によって内容も変わっていく。そんな連ドラは、その場その場の発想で辻褄を合わせていくことも少なくない。その巧さが作り手の才能だったりもする。
勢い勝負で、最もノッていた時代の連ドラで鍛え上げられてきたドラマの女王だから、さりげなく、前の話に出てきたことを生かしていくところも職人技だ。
(木俣冬)