第21週「生きたい!」第125回 8月24日(金)放送より。
脚本:北川悦吏子 演出:橋爪國臣 田中健二

律くんに特化した写真集が9月5日発売
佐藤健 in 半分、青い。
125話はこんな話
岐阜犬の声をやっている途中に和子(原田知世)が発作で倒れる。
和子のために季節外れの苺を買いに出かけた律(佐藤健)はその帰り、センキチカフェに立ち寄り、岐阜犬に話しかける。
有田哲平、参上
冒頭、新聞紙が風に吹かれ、まるでゴーストタウンに流れ者がやって来る西部劇みたいな演出で、津曲(有田哲平)がやって来てつくし食堂に入る。
明らかにふくろう町にはいないタイプの風貌(とりわけ細い黄色いネクタイ。髪型も相当気になるが)が気になって、草太(上村海成)が「テレビに出てる人ですか?」と聞く。もしかしたら草太のカツ丼の取材かもしれないと思ったのかも。
ケータイのマップを見ていたから、グルメサイトを見てやって来たことは確かであろう。
津曲は電博堂(説明するまでもないが、電通と博報堂 二大広告代理店を足しである)から独立してヒットエンドランという会社をやっていた。
「ひとつのヒットでチャンスが拡大」「1+1=3」みたいなという考え方は、「半分、青い。」の攻め方にも似ている気がする(現在、関連本やコンピレーションアルバムなどの発売ラッシュ)。
和子さん、倒れる
鈴愛(永野芽郁)が胡散臭いと感じていた津曲は、五平餅1本サービス券をもらってセンキチカフェにやって来て、岐阜犬としゃべる。
そこで和子が発作を起こしてしまう。
津曲が血液型を聞いて、O型と答えた和子に、犬にはO型はない「このあやかしめ」と冗談とはいえ指摘したことで、和子さんはショックを受けたのではないかと思って胸が痛くなった。
ほんのちょっとした刺激が心臓には悪いと思うので・・・。
「いつでもおかしない」とキミカ(余貴美子)の言葉に、弥一(谷原章介)も律(佐藤健)もうなだれる。
谷原章介の哀しい顔がたまらない。
僕は和子さんの息子で幸せだった
律は和子さんにねだられて苺を買いにいくとたまたま売っていて、2パック買う。
ひとつは鈴愛に「本日はサンキュ。」とお礼だったらしく、それを渡すためにセンキチカフェに立ち寄ったようで、でも店はすでに閉まっていて岐阜犬もカウンターにしまわれている。
苺を2粒先に食べて「酸っぱい いや甘いか」と逡巡しながら、岐阜犬に声をかけると、岐阜犬がしゃべりはじめた。
和子さん、具合悪いにもかかわらずまたシステムに向かっていたのかと思うと切ない。
律は面と向かって言えないいろいろなことを岐阜犬に語りかける。
「僕は和子さんの息子で幸せだった」と過去形にしたのを「幸せだ」といい直す律。こんなところも不器用だ。
何も言えないし、何もできない自分を悔やむ息子に「もう遅いよ 帰っておいで」と母は優しい。
すごくいい話だが「もう遅いよ」がいまさら後悔しても遅いよというブラックな意味と一瞬思って「幸せだった」の過去形以上にぎょっとしたが、そんなわけはない、遅い時間だよという意味(当たり前)。
いい場面をいい場面で終わらせず、特別な調味料をひとふりかけするように心をざわつかせ続けるシェフの技。
星野源、アイデアを語る。
8日後、満月の日に和子さんは亡くなる。
その後の「あさイチ」は主題歌「アイデア」の星野源がゲスト。なんだかしんみりはじまったが、
「アイデア」の創作秘話などが語られて盛り上がった。
この曲の一番には、これまでの星野源の楽曲のタイトルや歌詞からとったワードが散りばめられているのだという。
「おはよう」は、星野がくも膜下出血で倒れたあとの復帰作からとったもので、それは「おはよう はじめよう」ではじまっていたそうだ。
なるほど、「おはよう」は気分をリセットしてさらに引き上げるものなのだなあ!
また星野は「アイデア」に今までの自作のエッセンスを入れて、どこを聞いても「星野源」と思えるようようなもの、自分の名刺みたいにしたかったと語った。一番はこれまでの自分のパブリック・イメージ、二番は内側の自分、そして三番は・・・。
そういえば、「半分、青い。」も北川悦吏子の過去作を思わせるモチーフが散りばめられている。
朝ドラという今、日本で一番見られているドラマで自分をアピールしようと誰もが思うことなのだろう。
星野源が作品をまるごと“自分”だというようなことを言っても批判のツイートは見当たらないが、北川悦吏子が作品に“自分”を総動員して作っているように感じることや、なにかと自己宣伝的なことをすると批判される、この違いはなんだろう。それはドラマが集団芸術だからだろう(歌ももちろんいろんなスタッフが関わっているのだけれど)。
星野源が、「半分、青い。」で鈴愛が漫画家に挫折する場面を見て、モノづくりをやっていて「ただ好きなのに、いつの間にか競争のなかに巻き込まれてしまう」ような恐怖や不安や怒りを感じたという話は重かった。
永野芽郁のキレッキレの演技は、星野源が一時期、舞台でやっていたキレッキレの演技を思い出す。守らずすべてを吐き出す芝居はほんとうに大変で、かなり危険であるので、このドラマの制作チームはいったいどれだけの覚悟をもって俳優を追い込むこういう作品に挑んだのかだけがずっと気になっている。永野芽郁はこの挑戦をきっかけに俳優としてさらなる飛躍を遂げてほしい。
(木俣冬)