ベルリン中央駅から西へ30分。電車がブランデンブルク州にあるエルスタル駅に到着した。
同オリンピック村跡地は、一見するとただのさびれた運動公園。「オリンピック選手村」の華やかさは少しも残っていない。グラウンドの芝生は暑さでところどころが枯れており、サッカーゴールはさびている。加えて、敷地内に人の姿は見当たらない。よく見なければ、ここがオリンピック村跡地かどうかも分からないほどに寂しい雰囲気だ。
現在、跡地の一部はツアーガイド付きで一般に公開されている。筆者がこの見学ツアーを利用して同地を訪れたのは7月下旬。見学ツアーは敷地の内側を一周するコースだった。スタート地点横の体育館から始まり、プール、宿舎、食堂、トレーニングルームのあった建物を周り、人工湖の跡地で終わる。どの場所も手入れが行き届いているが、水のないプールや人のいない宿舎に五輪当時の活気はない。
かつてここには見せかけの平和があった。
ナチスのプロパガンダとしてのオリンピック村
1936年、ナチス政権はプロパガンダの一環として、同オリンピック村の建設に取り掛かった。当時は最先端の施設だった。国民啓蒙・宣伝相のヨーゼフ・ゲッペルスは建設中の同施設を視察し、「豪華な施設。強力に工事が進められている」と日記に書き残している。
同政権の目論見は、オリンピック村で選手を手厚くもてなし、「ドイツは友好的で平和な国」という印象を与えること。「社会に影響力のある五輪選手が故郷でドイツの平和な印象を広めてくれれば、国際社会からの自国に対する監視をかわせる」とナチスは考えたのだ。
ナチスの思惑通り、49カ国から集まった約4000人の男性アスリートは、ドイツの技術を集結してつくった選手村を堪能した。例えば、人口湖とその横に作られた屋外サウナ(1980年代に取り壊されている)。この湖にはベルリン動物園から水辺の生き物や鳥が連れてこられ、理想の自然が再現された。また、日本の要望で敷地内には蒸し風呂も作られた。これらの施設で選手たちは自由時間を楽しんだ。
オリンピックが隠したナチスの残忍な犯罪
こうした見せかけの「平和」の裏で、ナチスは自らのイデオロギーにそぐわない人々を迫害した。特にユダヤ人はナチスによって徹底的に社会から排除された。
ユダヤ人迫害の一例はオリンピック村の指揮官、国防軍大尉のヴォルフガング・フュルストナーだ。彼はユダヤ人といううわさがたったせいで職も家族も失い、五輪閉会の3日後に自殺した。独ヴェルト紙は、うわさと自殺の関連は明らかになっていないとしつつも、この事件はオリンピックの陰で起きたナチスの非人道的な犯罪行為の激しさを物語ると報じている。
また、オリンピック村の立地も平和な印象からは程遠い。オリンピック村の建築を管理していた国防軍は、五輪後に同地を兵営にすることを視野に入れていた。もともとこの一帯には第一次世界大戦の頃から兵営があり、同兵営の拡大が計画されていたのだ。この計画は実行に移され、「平和の村」は兵営となった。そして戦時中、食堂は野戦病院として、選手のレセプションエリアは将校の兵舎として利用された。
戦後のオリンピック村はソ連軍将校の居住区へ
兵営になった「平和の村」は、そのまま第二次世界大戦の終戦を迎えた。この施設に目をつけたのがソ連軍だ。戦後、五輪村を含む地域はソビエト連邦の管轄区になり、大きな戦災を免れた五輪村跡地はソ連軍将校の居住地として利用された。彼らは敷地内に新たにコンクリートの居住棟を建て、家族とともにここで暮らした。
1992年、冷戦の終わりとともにソ連軍の将校もこの地からいなくなった。今、彼らが住んでいた建物は、オリンピック村の設備とともに、廃虚のまま取り残されている。
ベルリンオリンピック村は、スポーツが政治の道具となった時代を現代に伝える。五輪の華やかさに惑わされ、その陰で起きた政治の変化が見過ごされた歴史が、この場所には深く刻まれている。
(田中史一)