
将棋を指すだけで飯を食える仕事、プロ棋士への狭き門
プロ棋士とは、将棋を指すことで飯を食っている人のことである。仕事として将棋を指すには当然高いレベルの技量が求められるので、プロになるのはめっちゃくちゃに厳しい。『泣き虫しょったんの奇跡』の題材のひとつが、この「どうやったら将棋のプロになれるのか」というプロセス自体だ。
プロ棋士になるには、まず関東と関西にあるプロ棋士養成機関である新進棋士奨励会に入る必要がある。四段以上のプロから推薦された上で毎年8月の試験に合格すると奨励会に入ることができるのだが、ここに入るだけでも並大抵のことではない。会員は全部で160~170人ほど、六級から三段までの等級に分かれており、満21歳の誕生日までに初段、そして26歳までに四段になれなかったら退会というルールが存在する。逆に、それまでの間に四段になれればプロ棋士になれるが、それには年に2回開催される「三段リーグ」を戦い、その中で上位2人までに残らなくてはならない。奨励会に入るだけでも超大変、さらにその中で勝ち残りつつ、26歳までに四段にならなくては強制的にプロへの道が閉ざされる……という、キツいハードルが何段も設けられているのだ。
『泣き虫しょったんの奇跡』の主人公、瀬川晶司は実在の棋士である。瀬川はこの「26歳で四段になれなかったらアウト」のルールによってプロへの道を閉ざされたが、2005年に35歳で異例のプロ編入試験(その前に試験が行われたのは1944年だという)を受け合格。現在もプロ棋士として活動している。
26歳で完全アウト、でも負けっぱなしでは終われません
"しょったん"こと瀬川晶司は、10歳の時に初めて「プロ棋士」という職業を知る。特に何かに入れ込むこともなく過ごし、好きなことと言えば将棋くらい……という瀬川少年は、隣に住む同級生の鈴木悠野も将棋が好きだと知り、2人で将棋を指しまくる小学生生活を送ることに。その姿を見た瀬川の父の敏雄は、2人を街の将棋道場に連れていく。かくして、2人はめきめきと腕を上げ、中学三年生の時に瀬川少年は奨励会の門を叩く。将棋のプロになれるかもしれない、という期待を胸に。
前述のように奨励会には厳しい年齢制限がある。22歳の時に三段へと昇段した瀬川は、年2回の三段リーグで上位に食い込まなくてはプロになれない。26歳までに残された機会はあと8回。負けが込んできた選手には誰も近づかず、ある者は厳しい現実に打ちのめされて奨励会を去っていく。瀬川自身もタイムリミットが迫る恐怖から仲間と遊びまわってしまい、挙句最後の三段リーグでプロになるチャンスはあっけなく消えてしまう。
26歳まで将棋だけにのめり込んできたところで、いきなり社会に放り出される瀬川。27歳で大学に入り直したものの、今まで自分を応援し続けてくれた父が交通事故で他界してしまう。
「奇跡」というタイトルがついているものの、映画の尺の半分ちょっとは瀬川がいかにして挫折したかを描くのに費やされる。地元の道場では大人を打ち負かすほどの腕ながら、将棋のエリートが全国規模で集まってくる奨励会ではその程度は当たり前。年下のプレイヤーが自分より上の段位になり、残された時間はどんどん少なくなっていく。自分には将棋しかないのに、その将棋の世界に居続けることができないかもしれない。そんなプレッシャーの中で、友人たちと争わなくてはならない……。想像するだに恐ろしい状況である。その状況で、瀬川はついつい友人たちと遊んでしまう。自宅に同じ奨励会の連中を呼び込み、将棋も指すけど合間にチンチロリンやら格ゲーやらパチンコやら競馬やらで貴重な時間を食いつぶす。
「そりゃあかんでしょ!」という気分になるけど、おれは瀬川を笑えない。タイムリミットがあるとはいえ、奨励会に在籍しているのは全員まだ20代前半の若者だ。その年でこんなめちゃくちゃなプレッシャーがかかったらどうなるか。そりゃ現実から目をそらしたくもなろうというものである。この辺の「瀬川はいかにして挫折したか」というプロセスを丁寧に描いているので、『泣き虫しょったんの奇跡』は生々しい。絵面は地味だが、綺麗事だけでは済まさないという気迫がある。
「負けても大丈夫」という主題と、将棋の特徴の噛み合い具合
瀬川は挫折したが、やがて奨励会時代には気付いていなかった将棋の面白さに気付き、もう一度プロを目指そうとする。映画の後半では、瀬川がゆっくりと再起を図るプロセスにスポットが当たる。一度は人生を捧げたものに絶望した人間が、どうやったらもう一回勝負に戻ってくるか。『泣き虫しょったんの奇跡』は、さりげなく「時間がけっこう経過しているし、瀬川は就職して他の仕事もやっている」という点を示すことで、もう一度将棋に向き合う土壌が整ったことを表現する。丁寧である。
この映画で印象的なのが、「将棋に負けたシーン」を何度も映すことだ。
将棋は基本的にゲームなので、負けても実際には死なない。というか、将棋を指す人間は絶対に一度以上は負ける。どんなに強い棋士でも、負けることはあるのだ。しかし、負けたことで強くなる場合もある。この「負けた側が負けを認めるプロセスが必須」「負けても死なない」「負けることで強くなれることもある」という将棋の特性と、一度大きく挫折した男が再起を賭けて立ち上がるという映画の主題がうまく噛み合っている。しかも、それを劇中でことさら強調したりしない。絶妙なバランス感覚である。
「負けても大丈夫なこともある」という、真っ当だけど優しいメッセージは、いろいろガッカリするようなこともあるおれたち全員に響くものだと思う。
(しげる)
【作品データ】
「泣き虫しょったんの奇跡」公式サイト
監督 豊田利晃
出演 松田龍平 野田洋次郎 新井浩文 早乙女太一 妻夫木聡 松たか子 美保純 イッセー尾形 小林薫 國村隼 ほか
9月7日より全国ロードショー
STORY
幼い頃から将棋一筋で生きてきた瀬川晶司。しかし「26歳までに四段に慣れなければプロになれない」という将棋界の厳しいルールに、プロ入りの道を閉ざされる。一度は絶望した瀬川だが、周囲の人々によってもう一度将棋の楽しさに気付き、プロ編入試験を受ける決意を固めていく