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大河ドラマでも異彩を放った萩原健一
萩原は「いだてん」以前にも大河ドラマに5作出演し、そのたびに強い印象を視聴者に残してきた。大河初出演は1974年放送の「勝海舟」で、岡田以蔵を演じた。主人公の勝海舟や同じ土佐出身の坂本龍馬など歴史の大舞台で活躍する人物たちの裏で、人斬りとしてしか生きられなかった以蔵は、影のある青年を演じることの多かった初期の萩原にまさに適役だった。
その後、大河には1991年の「太平記」に新田義貞の役で17年ぶりに出演。だが、このときはケガで途中降板している。代役をやはりいまは亡き根津甚八が務めた。無念の降板から2年後、1993年の「琉球の風」では、薩摩藩主・島津義久の典医で、主人公の父親である楊邦義(架空の人物)役で出演した。さらに1999年の「元禄繚乱」では江戸幕府5代将軍・徳川綱吉を、2002年の「利家とまつ〜加賀百万石物語〜」では明智光秀をそれぞれ演じた。いずれも、ときには狂気すら感じさせる演技が強烈だった。
不祥事による大河ドラマ降板も
「いだてん」では、足袋屋の主人・黒坂辛作を演じていたピエール瀧の降板により、同役が三宅弘城へと交代したばかりだ。大河ドラマでは、今回の一件や「太平記」の萩原健一以外にも、たびたび出演者が降板している。記憶に新しいところでは、「軍師官兵衛」(2014年)で語りを務めていた女優の藤村志保が病気で途中降板、フリーアナウンサーの広瀬修子に交代している。
不祥事による降板もある。1978年の「黄金の日日」では、蜂須賀小六を演じていた室田日出男が同年2月に覚醒剤事件で逮捕され、降板した。このときはとくに代役も立てられず、役そのものが劇中からフェードアウトしたようだ。しかし逮捕後のNHK側の対応は、ピエール瀧の一件で、放送済みの場面まで撮り直しが決まった今回とはまったく違った。このときは、それまで収録した分については、室田の出演場面をカットするのは制作条件上無理との理由で、オープニングタイトルから室田の名前だけカットし、収録日をテロップで明示してそのまま放送されている。「黄金の日日」は現在、NHKオンデマンドで全話が配信中だが、そこでは室田の出演シーンも視聴できる。
主演と脚本家が降板して激震が走った「勝海舟」
萩原健一が岡田以蔵を演じた「勝海舟」は、大河ドラマ史上最大の降板劇が生じたことでも知られる。幕末の幕臣・勝海舟を主人公にした同作では、渡哲也が主演を務めた。しかし、年明けにドラマがスタートして早々に、渡は病気でドクターストップがかかってしまう。このため収録を1月いっぱいで終え、松方弘樹と交代する(放送では松方は3月に登場)。大河ドラマで主演俳優が交代したのはこれが初めてで、その後もいまにいたるまで例がない。
「勝海舟」ではまた、脚本を担当していた倉本聰も途中降板するという前代未聞の事態となった。原因は、NHKの演出陣との対立だった。
倉本は脚本執筆にとどまらず、俳優たちの脚本読みに立ち会い、注文をつけるのを流儀としていた。NHKで「勝海舟」以前にたびたび倉本とドラマを一緒に手がけた演出家の大原誠によれば、脚本読みから、さらに立ち稽古まで見て、動きを指示し、自分の書いた作品の意図を俳優に伝えていたという。また、配役(キャスティング)にも強い関心を持っていた(大原誠『NHK大河ドラマの歳月』NHK出版)。
じつは、渡哲也の降板が決まり、代役に松方弘樹を立てる案が出たとき、直接、交渉にあたったのも倉本だった。NHK局内ではこの案に無理だろうという観測が強まり、誰も口説きに行かないので、倉本がプロデューサーに承諾を得たうえで動いたという。松方が当時専属だった東映の社長・岡田茂は、倉本の申し入れに「松方にもいいチャンスだ」と言って、進行中の仕事を除いて、その後のスケジュールを止めてくれた、と倉本の自伝にはある(倉本聰『見る前に跳んだ』日本経済新聞出版社)。ただし、松方自身は後年の聞き書きで、倉本から直接電話で打診されたと証言している(松方弘樹・伊藤彰彦『無冠の男 松方弘樹伝』講談社)。
しかし、演出家やプロデューサーたちからは、演出や配役にまで口を出す倉本のやり方を“越権行為”として批判の声が上がる。一方、倉本も、演出家が台本を書き替えていると出演者の萩原健一から教えられ、不信感を募らせる。彼に言わせれば、《僕の意図を上回るいい解釈には諸手を挙げて賛同する。もちろん演出家の考えもあるし、それも尊重するけれど、無断変更は気分が悪い》(『見る前に跳んだ』)。
結果的に、倉本と演出陣は決裂するにいたる。
雑誌の発売日、「『勝海舟』を内部から爆弾発言!」という見出しの新聞広告に、NHK局内は騒然とする。このあとのことを、倉本は《二十数人の番組スタッフに徹底的に吊し上げられた。僕に同情的な人はたったの二人。「記事の内容をよく読んでくれ」と言ったが、聞く耳を持たない。悔しくて悲しくて泣けてきた》と述懐している。
ただ、当該記事(「ヤングレディ」1974年6月17日号)を読むと、「出演者やスタッフ一同頑張っている」といったニュアンスはあまり読み取れず、見出しがどうあれ、結果は変わらなかった気もする。『NHK大河ドラマの歳月』によれば、このときチーフプロデューサーとチーフディレクターが両者の和解に奔走したものの(おそらく倉本の言う「同情的な人」とは彼らのことだろう)、こじれた糸は戻らなかった。
NHKと決裂した6月のその日、倉本は局を出るとそのまま羽田空港に向かい、札幌行きの飛行機に乗った。その後、札幌市内の旅館に身を潜めながらも、10月27日放送の第43話「大政奉還」までは脚本を書いて郵送し続けた末、降板する。それから先、12月の最終回までは中沢昭二が代役を務めた。
一方の当事者である、演出陣の一人だった4番手の演出担当者は、倉本との対立を、後年次のように振り返っている。
《倉本氏はその自信から「勝海舟」は自分一人でつくっていくんだという思いがあり、一方我々は、一つのチームで、一つの組織でつくっていきたいという思いがあったのは事実です。脚本どおり映像化していくのが演出なのか、NHK制作の主体性・演出の主体性はどこにあるのか、ということです。/結局、倉本氏がスタッフに謝罪し、その代わり降板するという最悪の形となってしまいましたが、今思えば、当時皆若かったなあということです》(『NHK大河ドラマの歳月』)
前出の大原誠は、自身の経験から《倉本氏は徹底的に話し合うことのできる作家です。この話し合いの時間をおろそかにすると、演出者と倉本氏は常に対立します》と書き、《大河ドラマの演出者はブロック撮りのため、毎週毎週スタジオに入って収録しています。演出陣が極端に忙しかったことも事実でしょう。残念なことですが、徹底的な話し合いが欠けていたようでした》と指摘した(『NHK大河ドラマの歳月』)。
倉本の降板について、出演者に対しスタッフから連絡はなかったらしい。主演の松方弘樹はこれに不信を覚え、「勝海舟」の収録をすべて終えた直後、新聞紙上で《NHKに出演する気は、もうありません》と宣言(「朝日新聞」1974年11月5日付夕刊)、その後も雑誌などでNHK批判を繰り返した。
松方が再びNHKに出演するのはじつに35年後、徳川家康を演じた大河ドラマ「天地人」(2009年)まで待たねばならなかった。大河ではこのあと、2013年の「八重の桜」に出演している(大垣屋清八役)。なお「勝海舟」の主演を松方に譲った渡哲也は、1996年の「秀吉」で織田信長、2005年の「義経」で平清盛を演じている。
倉本聰は、「勝海舟」での騒動を機に北海道に拠点を移した。当初は転職も考えていたというが、彼の滞在する旅館を探し当てたフジテレビのプロデューサーとディレクターからドラマの脚本を依頼され、引き受ける。ここから生まれたのが、テレビ番組の内幕を描いた「6羽のかもめ」という連続ドラマで、騒動直後の1974年10月より半年間放送された。翌75年には、北海道を舞台にした「うちのホンカン」(北海道放送・TBS系)と、萩原健一が東京・深川の料亭の板前見習いを好演した「前略おふくろ様」(日本テレビ)があいついでヒットする。後者は萩原に「何か書いてください」と頼まれたのをきっかけに生まれ、いまなお名作の誉れ高い。さらに1981年には北海道富良野を舞台とする「北の国から」(フジテレビ)が始まる。これは、やがて俳優や脚本家を養成する富良野塾の開塾へとつながっていった。
「飲む、打つ、買う」は本当に芸の肥やしになるのか
大河ドラマ降板した者の“その後”でいえば、「黄金の日日」を降りた室田日出男はその後、「琉球の風」(1993年)、「北条時宗」(2001年)と大河ドラマに出演している。
室田は逮捕から約3ヵ月後に映画の撮影で活動を再開した。彼の特異なキャラクター、演技がいまの日本映画界には貴重なものとされての起用であったという(『週刊平凡』1978年6月1日号)。「特異なキャラクター、演技」という点では、やはり薬物事件で大河ドラマを降板せざるをえなかったピエール瀧もまた、室田と同じく貴重な存在であった。
萩原健一も大河からこそ降板しなかったものの、大麻事件を含む4度の逮捕を経験している。訃報を受けて、テレビなどではそんな彼の破天荒な人生が、多分にノスタルジーを交えて紹介された。それがピエール瀧に批判が集まる時期と重なったのは、皮肉というしかない。
萩原にかぎらず、松方弘樹しかり、往年のスターたちは多かれ少なかれ、一般常識からどこか逸脱したところがあった。そのなかで、「飲む、打つ、買う」は芸の肥やしともいわれた。ただ、そうした逸脱が、スターたる条件ととらえるのもちょっと違う気がする。そこで思い出すのは、ビートたけしが目下「いだてん」で演じている古今亭志ん生について、以下のように話していたことだ。
《志ん生さんの話に戻ると、「飲む、打つ、買う」の芸人と見られがちだけど、落語を忘れて溺れたことはなかったと思う。酒も博打も芸の肥やし。勉強家で、歩きながら落語をブツブツやってたそうだよ。講談も都々逸も常盤津もできるけど、「俺の芸を見ろ」としたり顔をすることもない。落語が大好きなだけなんだ。だから周りは許しちゃう。形だけ「破滅型」をまねる芸人とはわけが違うよ》(『NHK大河ドラマ・ガイド いだてん 前編』NHK出版)
志ん生の次男の古今亭志ん朝も、父親について「私生活はぞろっぺえだったが、芸に対する態度は鬼気迫るものがあった」と生前語っていた。思うに、本当に「飲む、打つ、買う」が芸の肥やしになるとして、それは志ん生のように芸に対する執念や情熱が、まず先にあってこそ初めて成り立つのではないか。執念によって磨き上げられた芸は、しくじりをも飲みこんで、それすらも芸に昇華してしまうに違いない。逆にいえば、逸脱が芸への執念を侵食したとき、その人物は文字どおり破滅にいたるのだろう。
萩原健一も、たしかに破滅型ではあったが、挫折のたびに復帰を果たし、ついに破滅することはなかった。それは周りの人たちの協力もさることながら、彼が人一倍、俳優という職業に執着していたからではないか。こうした例を見るにつけ、やはり芸能人が不祥事を起こしたからといって、その才能を活かす場までとりあげてはいけないという思いを強くする。ピエール瀧も、今回は残念な結果となったが、いずれまた復帰し、大河ドラマにもまた出演してほしいと願っているのは、私だけではあるまい。
(近藤正高)