昨年、『週刊プレイボーイ』や『週刊ヤングマガジン』など、様々な雑誌のグラビアを席巻した桜井木穂。北海道のオホーツク地方出身であることにちなんで名付けられた100cmの”豪雪バスト”を披露しては、たびたび話題を呼んだ。
実は彼女、その半生を振り返るとかなりの苦労人でもある。だが、本人はその不遇時代を振り返っても「どうせやるなら、自分の力で努力して上を目指したいんです」とあくまでもポジティブ。その底抜けに明るい笑顔はどこからくるのか? 今年、ブレイク筆頭にも上げられる桜井木穂に話を聞いた。(前後編の前編)

【写真】股下86cmの美脚のパーフェクトボディ、桜井木穂の撮り下ろしカット【8点】

――今回は、桜井さんの生い立ちからグラビアアイドルになるまでの過程を聞かせてください。子どもの頃は、どんな性格だったんですか?

桜井 小学生の頃は、学級委員長を務めたり生徒会に入ったり、わりと真面目な方でした。それが中学生になってからは、なぜかお笑い担当キャラになっちゃって。クラスのみんなを笑わせる”お笑い係”をやっていたくらいです(笑)。もともと、おバカなノリは結構好きだったんですよ。学校の先生にも「お前は吉本に入って芸人を目指すか、声が高いから声優になったらいいんじゃないか」と言われていましたしね。そんな感じの子どもだったので、昔から、表に立つ仕事にぼんやりと憧れはありました。

――確か、地元の北海道にいたときからモデル活動はされていたんですよね。

桜井 はい。
小学生のとき、女優さんになりたかったんですよ。それで、北海道で開催されていたオーディションを受けてみたら、会場を出たところで札幌にある大きめのモデル事務所の方にスカウトしていただいたんです。「今は大人しかいないけど、これから子ども部門を作るからどう?」って。親も所属を許してくれたので、そこに入って、キッズモデルをやらせてもらっていましたね。ただ、私が住んでいる地域から札幌まで、片道4時間もかかるんですよ。だんだん通うのが困難になって、キッズモデルは辞めることになりました。

――そうだったんですね。

桜井 小学校高学年では、歌って踊れるアイドルに憧れていました。そのとき、ちょうどひとつだけ年齢が満たなくて、受けられなかったアイドルオーディションがあって。満たないといってもほんの数ヶ月だし、受けても問題ないんじゃないかな?と思いつつ、注意事項に「※水着になる可能性があります」と書かれてあるのを見て「これはお母さんには言えないな」と、応募せずに諦めたこともありましたね。私もまだ子どもで、水着には少し抵抗もありましたし。

――では、小学生時代のキッズモデル以降は、特に芸能活動的なことは何も?

桜井 そうですね。
アイドルになりたい気持ちは変わらずありましたが、ずっとアルトサックスを習わせてもらっていて、お金もかなりかけてもらっていたし、親からは「サックスを頑張りなさい」と言われていましたから。高校生のうちは「アイドルになりたい」なんて言えませんでしたね。もし、ここで本音を打ち明けられていたら、今頃アイドルをやっていたかもしれない。でも私は、高校を卒業して、自分で責任を負えるようになってからじゃないと、夢に向かって動けなかったんです。

――高校卒業後は早速、夢に向かって?

桜井 普通に就職をしましたが、キッズモデル時代の事務所に籍だけ置いてもらっていたので、仕事が休みの日には、イベントコンパニオンのアルバイトをやらせてもらっていました。そしたら、イベントで出会った方に「本格的にレースクイーンを目指してみたら?もしくはグラビアもアリなんじゃない?」と言われたんです。私もグラビアを見るのが好きだったしやってみたかったので、当時のマネージャーさんに相談したら「北海道では無理だけど、事務所の子で、東京に行ってグラビアをやっている先輩は何人かいるよ」と。それで、私も東京に行って、グラビアアイドルになろうって思ったんですよね。

――歌って踊れるアイドルではなく、グラビアアイドルを目指すようになったんですね。

桜井 はい。私、アイドルになるにしても地下アイドルがよかったんですよ。なぜなら、既にメジャーなアイドルに加わるよりも、地下アイドルになってイチから積み上げていく方が大変そうだから。
どうせやるなら、自分の力で努力して上を目指したかったんです。自分を追い込んでこそ、熱くなれるタイプなので(笑)。となると、多分、グラビアアイドルの方が性に合っていると思ったんですよね。アイドルは、尊い存在として応援する側でいようと。あえてアイドルオーディションも受けませんでした。

【後編はこちらから】桜井木穂の上京1年目、昼と深夜のバイトを掛け持ち、ファーストフードで仮眠
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