2000年代、「和希沙也」の芸名でテレビにグラビアにと引っ張りだこだった倉本清子。現在は女優として活動し、6月25日公開の映画『どうしようもない僕の ちっぽけな世界は、』に出演する。
バラエティ番組での明るいキャラが印象的だった彼女だが、実は当時は本当の自分との乖離に、葛藤を抱えていたと明かしてくれた。(前後編の前編)

【写真】歳を重ねても美しい、倉本清子の撮りおろしカット【10点】

──芸能活動も12年目になりましたが、そもそも最初はどうして芸能界に入ったんですか?

倉本 私の芸能界入りは遅くて、19歳のときでした。将来何をするか決めていなかったので海外留学から帰って、さて何しようかなというときに母から「ホリプロスカウトキャラバンがあるよ」と勧められて。芸能界に全然興味はなかったのですが、母が「1回だけ受けてみようよ」と積極的で(笑)。受けたところ、事務所の方に声をかけていただいて、2001年にホリプロ大阪に所属しました。大阪は実家から通える範囲だったし、せっかくもらったチャンスなので勉強しながら、ちょっとだけやってみようかなと思っていました。流れに身を任せてという感じですね。

──その後、1万5000人の中から「ミスマガジン2002」のグランプリに選ばれました。

倉本 ヤングマガジンの編集の方から「ミスマガジンというのがあるから、受けてみたら?」と言ってくださって。なんとなくオーディションを受けて、そこでグランプリをいただきました。グランプリ受賞は東京から滋賀の家に帰る新幹線の中で聞いたんですけど「ああ、そうなんだ」と、何だか自分のことじゃないみたいな感覚だったのを覚えています。

──中川翔子さん(ミス週刊少年マガジン)と安田美沙子さん(ミスヤングマガジン)を抑えてのグランプリですしね。
しかも、当時はグランプリの景品として自動車が送られたんですよね?

倉本 そうです、トヨタのノア! あの頃はグラビアシーンの景気が良い時期だったんでしょうね。海外にもいっぱい、いろんなところに連れて行ってもらいました。撮影期間もすごく長くて、海外ロケのあとみんなで遊んでいましたし(笑)。ミスマガジンのみんなも仲が良かったです。

──めちゃくちゃいい時代ですね(笑)。特に思い出に残っていることはありますか?

倉本 『ロード・オブ・ザ・リング』のプレミア上映会がフランスであったときにヤングマガジンの企画で取材に行かせていただいたんですよ。今じゃあり得ないんですけど、現地ではイライジャ・ウッドさんなどに直接ご挨拶をさせていただきました。その後、スタッフさんたちと一緒にあっちこっちフランスを観光して、美味しいものを食べて……贅沢でしたね(笑)。

──水着グラビアに抵抗感はなかったのでしょうか?

倉本 時代柄もあってそこは全然なかったですね。水着もだいたいオレンジか黄色で、太陽の下で笑って楽しくやらせていただきました。当時、グラビアでは髪の長い子が多かったですけど、私は珍しくショートカットで別枠みたいな感じでしたね。

──確かに和希さんといえば、明るく元気なギャルというイメージでした。
一方で、読書家で当時のアンケートの好きな本にはオグ・マンディーノの『幸せを探す日記』を挙げていたりと、少し違った一面ものぞかせています。ご自身的に“明るく元気”というのはもともとの性格なのか、演じていたのかではどちらだったんですか?

倉本 自分の性格はそんなに明るくないと思うんです。実はそんなにキャピキャピして生きてきてないし(笑)。ただ、グラビアでも笑顔の写真を選んでいただけることが多かったので、そこから少しずつ元気なイメージが定着していったような気がします。若かったからできたと思うんですけれど、当時も自分の気持ちを持ち上げてやっていましたね。

──自分の中で、ギャップを感じていらっしゃったんですね。

倉本 ただ、明るいキャラを求められて仕事の依頼をしていただいている分、それを全うしなければいけないという責任感はありました。自分の中で葛藤はずっとありましたね。

──最初は関西にいましたが、上京のタイミングはいつ頃だったんですか?

倉本 20歳でホリプロの寮に入りました。当時、寮の門限は夜10時で1分でも遅れると、マネージャーに速攻で連絡が入って怒られていたんです。寮の近くには渋谷だったり、遊びたいところはいっぱいあったので、みんなギリギリまで遊んでいて、9時50分くらいに最寄りの駅から全力で寮まで走っていました(笑)。

──当時、寮で仲良かったはいますか?

倉本 木南晴夏ちゃん、綾瀬はるかちゃん、野村恵里ちゃん、藤本綾ちゃん、酒井彩名ちゃん、浜口順子ちゃんとかがいたんですけど、みんな仲が良かったです。
入るときはちょっと怯えていたんですけど、誰も意地悪な人はいないしみんな本当に優しくて。2年くらい寮にいましたけれど、楽しい思い出しかないです。「とにかく、みんな痩せなきゃねえ」とか話をしながら、みんなでお菓子をボリボリ食べていました(笑)。

──ミスマガジンのグランプリ獲得以降はバラエティ番組のレギュラーも増えていきますね。島田紳助さんが司会の『クイズ!紳助くん』」ではアシスタントを務め、『シブスタ S.B.S.T』では、おぎやはぎさんと生番組で司会を務めます。バラエティにも徐々に慣れていった感じでしょうか?

倉本 そうですね、頑張るしかなかったので(笑)。でも、芸人のみなさんは本当に優しいんです。おぎやはぎさんには「今の間はよくない」とか、間の使い方とか教えていただいて、紳助さんにも「自分のことを『沙也は~』とか名前で言ったらあかん。それだけでイメージはよくない。『私は~』とちゃんと言うんだ」とか、細かいことを色々教わりました。本当に勉強になりました。ただ、収録の後にその番組の夢を見てうなされたりはしていましたね。
失敗した日なんて、もう懺悔、懺悔で。とっさにうまく返せなかったときの自分を責めて、寝られなくなったこともありました。自分が出た番組は怖くて観られないことも多かったです。

──バラエティ番組はどのあたりがきつかったのですか?

倉本 私が真面目に発言したものが面白おかしく編集されていたり、自分が思っていたのと違う感じに仕上がっちゃっているのを観たときですね。番組は面白く作らなきゃいけないし、それも分かるんですけれど「ああ、こういう風になっちゃうのか」というつらさはありました。

──今の演技のお仕事ではそうしたストレスはないのでしょうか?

倉本 演技の経験は本当に少ないので、失敗することの連続でしたし、現場に行くときに足にじんましんが出ることもありましたよ。でも、自分で選択をしたことなので、そこは受けて立たなきゃと思いながら現場に行っていました。それにお芝居は楽しいです。やっぱり自分以外の誰かになれるっていうのは他の仕事ではないことなので。

──グラビア、そしてバラエティ番組と活躍の場が広がっていきましたが、当時からインタビューで女優への思いを何度も口にされています。「戦争を題材にした映画に出たい」とも発言していました。

倉本 たぶん、訴えていたんでしょうね。
上京してくる頃からずっとお芝居をやりたいと言っていたんです。映画が好きなので映画に携わりたいという思いがありつつ、グラビアから芸能活動を始めたからかどうしても違う方向に向かってしまう面があって……。求められていることが、どんどん自分のやりたいことと逸れてしまって、葛藤しながらもずっと続けていました。

──2011年にホリプロを辞められますが、それは今おっしゃったような事情もあってなのでしょうか?

倉本 そうですね。自分のやりたいことと、実際の仕事のバランスが取れていない気がしていて、このままやり続けると自分が壊れるかなという時期があったので、結婚を機に1回休んでみようと思いました。

──その後、現在の事務所に所属されますが、2019年に芸名を本名の「倉本清子」に変えています。どういった理由だったのでしょうか。

倉本 「和希沙也」という芸名だと、元気で明るくてギャルっぽいというイメージが定着しているなと思って。そこから抜け出したいというか、リスタートしたい。ここからちゃんと地に足をつけてしっかり地道にやっていきたいなという思いで変えました。

>>後編はこちら

(取材・文/徳重龍徳)
▽倉本清子(くらもと・さやこ)
1983年7月23日生まれ、滋賀県出身。O型。
160センチ。2002年、「ミスマガジン2002」のグランプリに選出される。以降『最高の離婚』、『坂道の家』、『ワイルド・ヒーローズ』、『悪魔とラブソング』などのドラマや『ST赤と白の捜査ファイル』、『殺る女』等の映画や舞台で活躍中。
Instagram:sayako_kuramoto
編集部おすすめ