モーニング娘
と山一證券、モーニング娘。と小泉構造改革、モーニング娘。とミレニアム問題……。ニッポンの失われた20年の裏には常にモーニング娘。の姿があった! アイドルは時代の鏡、その鏡を通して見たニッポンとモーニング娘。の20年を、『SMAPと、とあるファンの物語 -あの頃の未来に私たちは立ってはいないけど-』の著書もある人気ブロガーが丹念に紐解く! 『月刊エンタメ』連載中の人気連載を出張公開! 1997年11月のその日、テレビをつけるとスーツに身を包んだおじさんが1人、カメラの前で泣いていた。

伏線はその月の始めからすでに張られていた。 11月3日、準大手証券会社の三洋証券が経営破綻。主な倒産要因はバブル期の放漫経営だが、破綻前の再建計画を全うできなかったのはバブル崩壊後の平成不況、いつまでたっても出口の見えない日本経済の低迷がその運命に大きく影響していた。

さらにそれからわずか2週間後の11月17日、今度は北海道拓殖銀行が破綻。 都市銀行として北海道の地域経済を長年支えた〝拓銀〟は三洋証券と同様に、やはり放漫経営と不況の逆風に堪えきることができず、戦後初の都市銀行破綻としてその名を日本経済史に刻む。

そして1997年11月24日、あの記者会見は開かれる。


「私らが悪いんであって……社員は悪くありませんから! どうか社員の皆さんに応援をしてやってください! お願いします!」

カメラの前に座ったのは直前に自主廃業を決めた大手証券会社・山一證券の最後の社長、野澤正平だった。黒のスーツに身を包み、創業100年の栄華と前経営陣が隠し続けた約2648億円の帳簿外債務という現実を1人背負った野澤は、「これだけは言いたい」と前置きすると目を真っ赤にしながら、最後の力でマイクを握りしめて叫んだ。

――その野澤の慟哭から1時間30分前、東京から遠く離れた北海道の札幌キリンビール園。

「残り約2万5千枚になりました! 地元北海道の皆さんの力で、私たち5人をデビューさせてください! よろしくお願いします!」

 同じ1997年11月24日の朝、すでに1度まで冷え込んだ秋空の下、控室の5人の女性もまた、極度の不安と緊張でうつむいていた。

モーニング娘。と命名された彼女たちがメジャーデビューをかけてシングル『愛の種』の手売りを始めたのは11月3日、ちょうど三洋証券が会社更生法の適用を申請したその日であった。そして大阪、福岡、北海道と回るも毎度完売を逃し、たどり着いた4回目のキャンペーン会場・名古屋でついに目標の5万枚を売り切ったのは11月30日。  それは金融機関の破綻が一斉に起こり、安定成長を誇った日本経済がどん底に落ち、ワシントンポストが「Goodbye, Japan Inc.」と書いた、あの1997年11月の、最後の1日である。
 この国における1990年代とはつまり敗北の歴史であった。バブル崩壊後に始まった不景気の連鎖は止まるどころか年々広がっていき、前時代を知る大人はいつもため息をついていたし、前時代を知らない若者たちは人生を深刻な就職難にただ委ねるしか選択肢がなかった。
 そんな当時の状況の中で人々が持て余した未来や可能性は一体どこへ向いていたかというと、テレビでありCDの世界だった。年々上がっていく視聴率は不況など関係なくテレビを成功の地にし、CDは海外旅行やブランドファッションの代替品として若者の心を潤わせ、売上が爆発的に伸びていく。

 番組表の端っこにあった『ASAYAN』(テレビ東京)が人気番組になったのも、言ってしまえば木村拓哉にも広末涼子にもなれない若者がある日突然脚光を浴びる、そんな90年代のサクセスストーリーが〝夢のオーディションバラエティー〟にはすべて詰まっていたからだ。
 しかしそれでもスポットライトの傍には常に誰かの影がある。
「シャ乱Q女性ロックボーカリストオーディション」の優勝者が平家充代に決まった後、落選した参加者たちはそのままステージで拍手を送り、収録が終わると勝者の平家を笑顔で抱きしめる。
 収録後、彼女たちはそれぞれインタビューに答えた。

「私には歌しかないから」

「これからですか? とりあえず今の生活からは抜け出したいんで、人生冒険します」

 そう話したのは1973年生まれの中澤裕子、彼女は当時24歳の団塊ジュニアである。  バブル崩壊直後に高校を卒業した中澤は、大阪市内でOLとホステスのダブルワークをこなしながら、歌手になりたいという長年の秘めた思いを叶えるために、年齢の不安を抱えながら勇気を出してこのオーディションに参加した。

「私には歌しかないから、売れなくても好きな音楽をやっていけたら」

 こちらは1984年生まれの福田明日香の言葉。  当時12歳の彼女は、昭和と平成の狭間に生まれ育ったポスト団塊ジュニアにあたる。周囲にうまくなじめずにいた小学生時代、福田はとある劇団の試験に合格したことが転機となり、初めて小さな自信を覚える。そしてその先にあったのが中1の春に発表された、ASAYANオーディションの告知だった。

 しかしその終幕、年齢も故郷も違う彼女たちに付けられたテロップは皆同じ、「残念」というたった2文字の言葉だった。  それでも中澤も、福田も、同じオーディションに参加していた石黒彩飯田圭織安倍なつみも、落選を語る表情は悲壮感をまったく感じさせない、むしろとても穏やかな笑顔であった。


 1997年のあの頃、私たちは皆、平気なふりをして生きていた。  自分たちの生きる時代が光から外れた影であることにだんだん気づいても、平気なふりをして、日々歩いていかなければならなかった。  みんな必死に、影を受け入れて日々を生きていた。  そんな中でカメラが映し出した、溢れる感情をさらけだした男性の涙、泣き方を忘れた女性たちの笑顔。それは目の前で光が消えていった時代のリアルであり、見つからない明日の答えを探し続ける90年代の私たちの人生、そのものでもあった。

 90年代の記憶がひと昔前のものとなった今、当時の視聴者の1人としてふと思うのは、あの頃の日本が敗北の歴史だったとしたら、そこに生きていた人間の物語とは、敗北を受け入れた後に始まったすべての再生の物語だったのかもしれない、ということである。

 そしてその思いは、あの敗北の瞬間に居合わせた者たちが1つ、また1つと記憶を重ねていった、20年のストーリーのその先で、少しずつ確信に変わっていくのである。
モーニング娘。インディーズデビューシングル『愛の種』 (1997年11月3日発売)
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