1999年6月、人々はみなどこかで、この世の終わりを意識していた。
「1999年7の月 空から恐怖の大王が降ってくる」
始まりは1973年に出版された五島勉『ノストラダムスの大予言』の一節である。華々しい高度経済成長の影に潜んでいた公害問題が一気に噴出した70年代、汚れた空や川に未来の破滅を感じていた日本で、フランスの占星術師・ノストラダムスの予言集を元に1999年の人類滅亡説を語ったこの本は一躍ベストセラーとなった。そしてその後も戦争、災害といった日常の破壊が訪れるたびに「終末ブーム」の記憶はそこかしこで呼び戻され、ついにノストラダムスの予言を忘れられないまま、日本は〝1999年7の月〟を本当に迎えようとしていた。
一方、1999年6月のモーニング娘。もまさに転換点を迎えようとしていた。その引き金となったのは同年1月に発表された、福田明日香のこの言葉である。
「私は今年の春に、モーニング娘。を辞めることになりました」
前年にサードシングル『抱いてHOLD ON ME!』で初のオリコン1位を獲得したモーニング娘。は、その勢いを頼りに第40回日本レコード大賞最優秀新人賞の受賞、そしてNHK紅白歌合戦への初出場をやっと叶えたばかりだった。
福田の脱退理由は「普通の生活に戻りたい」。この14歳の切なる願いは直後に「卒業」という前向きな表現で語られるようになっていくが、当然、福田以外のメンバーは想像もしなかった日常の破壊の到来に、大きなショックを受けていた。
「早過ぎる、まだ一緒にやりたい」(石黒)
「こんな大事なときに」(飯田)
メンバーの喪失感と連動するように、モーニング娘。のCD売上は福田の卒業後、急速に勢いを失い始める。福田卒業シングル『Memory 青春の光』が累計売上41万枚だったのに対し、7人で出した次のシングル『真夏の光線』は累計売上23万枚。リーダーの中澤によればすでに「ものすごい危機感を感じていた」という。
しかもその流れの先に待ち受けていたのは『ASAYAN』(テレビ東京)で企画された歌手・鈴木あみ(当時・以下同)との「CD売上対決」である。
同じ1998年に同じ『ASAYAN』からデビューした鈴木あみは、当時その飛びぬけたルックスとスター性で若者を中心に絶大な支持を受けており、対決直前にはすでにファーストアルバム『SA』がミリオンセールスを記録している。人気に陰りの出てきたアイドルグループと、ブレイク街道まっしぐらの歌姫。その最新シングルのオリコン初登場順位を競わせると番組が発表したのは、1999年6月27日のことだった。
そして間もなくやってきた、1999年7月。1週間、2週間と日にちが経ってもまだ人類は滅亡していなかったが、それよりも先に現実となったのは日本のアイドルグループ・モーニング娘。における過去最大の「解散の危機」であった。
この売上対決にあわせてモーニング娘。が発表したのは6枚目のシングル『ふるさと』。絶対的エースの安倍なつみをメインボーカルに据え、他6人のメンバーは全員コーラスという、グループとしてはかなりの勝負作である。しかし発売から11日後の7月25日、『ASAYAN』で流れたのは自身初のオリコンシングルチャート1位にとびきりの笑顔を見せる鈴木あみと、敗者となったモーニング娘。7人の暗い表情だった。
「これが今回頑張った結果です」
この中澤裕子の一言にすべてが詰まっていた。そもそも前年からの知名度上昇で、モーニング娘。の活動はすでに多忙を極めている。目まぐるしい日々の中で、まだ若い彼女たちは体調を崩したりホームシックになったりしながらも、現場では求められたものに応えようといつも必死に仕事へ取り組んでいた。
安倍なつみがフィーチャーされた『ふるさと』にしても、あからさまに偏った歌割は当初メンバー間の軋轢も生んだが、それでもリリースの頃には「これが売れなかったらヤバい」とグループは一丸となってこの曲の披露に取り組むようになっていたのだ。
しかし歯車は、かみ合わない。
『ふるさと』のオリコン初登場5位という数字はただ単にライバルに負けたという以上に、若い彼女たちにとって、どんなに努力をしても光は見えないのだという、不条理で冷酷な現実の証であった。そして同じ時期、メンバーはマネージャーからついにこんな言葉も告げられる。
「次売れなかったら解散だから」
ただ、1つだけここで救いがあったのは、1999年7月のモーニング娘。にはまだ、次という概念が残されていたことだ。その耐え難い苦悩の先には破滅ではなく、「続く明日」の希望が、若い彼女たちをほんの少しだけ待ってくれていた。
1999年8月。
「世の中暗かったし、僕自身もプライベートがいい感じじゃなかった。でも、こっちの気持ちもお構いなしで楽しそうにくっちゃべってるモーニング娘。の雰囲気をお茶の間に届けられる曲を出したいと思いました」(つんく♂)
原案はまだ売れていなかった頃のシャ乱Qのボツ曲。そのときにつんく♂が鼻歌で録音していたデモテープから制作されたのがモーニング娘。の〝次の曲〟、7枚目シングルとして発表される『LOVEマシーン』である。
この曲はどん底にあったアイドル7人の人生と、そしてある中学生の人生も変えた。モーニング娘。3期メンバー・後藤真希。当時13歳だった彼女はたまたま学校で話題になっていた『ASAYAN』を観たところ、モーニング娘。の新メンバー募集告知を目にし、ふと姉に「履歴書を書きたい」と声をかけていた。
書類が投函されたのは彼女の自著によれば「中学2年生の7月」。
そう、それはまさに、あのノストラダムスが「空から恐怖の大王が降ってくる」と予言した、〝1999年7の月〟の出来事であった。
そしてこの一枚の履歴書が不況に生まれたアイドルグループの運命を、そして日本のアイドルシーンの運命を、一気に変えてしまうことになる。
1999年9の月。滅亡しなかった平成ニッポンに、その金髪中学生は東京都江戸川区からたった1人で舞い降りた。
「新メンバーになった、後藤真希、13歳です」
本当なら彼女の隣には、もう1人新メンバーがいるはずだった。そもそもモーニング娘。の第3期オーディションは、「1999月9日に9人になる」の触れ込みで始まったものである。先輩メンバー7人に対し、追加予定は2人。だがこの後藤真希の登場によって、それまで大人たちが用意していた計画はすべて吹っ飛んでしまった。“レベルがあまりにも違いすぎた”、それが後藤真希という存在である。
しかし、周囲の盛り上がりをよそに、本人は戸惑っていた。
「まさかわたしひとりだけ……とは想像もしてなかった」(後藤)
実際、当時の後藤はそのスター性こそ群を抜いていたものの、ステージでの本格的な歌やダンスはまったく経験がない。
「ヤバいですよ」「どうしますか」(後藤)
その閃光で突然歴史を変えてしまったモーニング娘。の救世主、しかし本当の姿は、わずか1カ月前まで近所の土手で友達と溜まってしゃべっていた、ごく普通の中学生であった。当然、彼女は覚え方のコツどころか、まともな練習の方法すら知らない。
しかもライブツアー参加を告げられた翌日には加入後の初シングル『LOVEマシーン』がオリコン初登場1位を獲得したため、モーニング娘。のスケジュールはすでにテレビ収録や雑誌撮影などで埋め尽くされている。慣れぬ日々に、クタクタな頭と体。後藤はライブツアー前日になってもまったくパフォーマンスが覚えられず、ついに振り付けを担当していたコレオグラファーの夏まゆみにも苦言を呈されてしまう。
そして迎えたツアー初日。本番40分前の後藤は『ASAYAN』(テレビ東京)のカメラの前に、顔面蒼白の状態で立っていた。
「たぶん失敗するんですよ……」(後藤)
その言葉の直前、後藤は極限の不安と緊張により、初めて先輩メンバーの前で号泣していた。観客はわざわざチケットを買って来てくれるのに、自分が失敗してしまったら、観客をガッカリした気持ちにさせてしまうのではないか。しかもキャパ1000人ほどの会場で、ミスをすればきっとすぐに分かってしまう。
後藤の涙は結局止まることなく、本番を迎える。そんな彼女に舞台裏で、メンバーは1人、また1人と声をかけた。
「自信持ちな、大丈夫」(安倍)「後藤、負けちゃだめだよ」(飯田)
いざ始まった本番。ステージに上がったモーニング娘。の後藤真希はそれまでの不安をはねのけ、歌もダンスもそして笑顔も完全に揃えた、堂々としたステージングを行った。それは夏まゆみをして「リハーサルは40点、でも本番は98点」と言わせた出来である。
1カ月前まで普通に暮らしていた、普通の女の子。ただひとつだけ、彼女には幼い頃から後のエースたり得る、ある自負が存在していた。
「選んでくれたら。任してくれたら。それをちゃんとやり遂げる自信がある」(後藤)
夏の高い評価を楽屋で聞いた後藤は、嬉しそうに笑って、そしてもう一度涙を見せた。
しかしこのとき、同時にあるメンバーは、すでにグループからの卒業を心に決めていた。
「あ、わたしがいなくても大丈夫だな」
モーニング娘。の結成メンバー、石黒彩が卒業を決めたのは、やはり1999年9月、あの『LOVEマシーン』がリリースされたときだった。後藤真希の加入によってグループが勢いづき、初のミリオンセールスを記録したタイミング。それは彼女にとって「自分の頂点はここだ」と思えた、アイドル人生の大きな節目でもあった。
「服飾の仕事がしたくなっていた」「続けていたら、もっと面白くなっただろうという考えはなかったです。次のことに気持ちが向いていたし、ファンの人にも、自分がお客になってライブを見に行けば会場で会えると思っていました」(石黒)
後藤が加入し、石黒が最後となった『LOVEマシーン』のカップリングに『21世紀』という曲がある。このシングルがリリースされた1999年はあの「ノストラダムスの大予言」の影響もあり、この世の終末という意味を重ねて「世紀末」という言葉がよく使用された。しかし1999年に待ち受けていたのは人類滅亡ではなく、結論としてこれからも続く明日の存在であった。世紀末が訪れても、シングルがミリオンセールスを記録しても、今日は等しく過去になって、次の明日がやってくる。
『21世紀』ではモーニング娘。のメンバー全員が自分の夢を語るパートがある。だがまだ13歳と若かった後藤は、まだ具体的に夢というものを考えたことがなかった。
「わたし、自分の夢が何なのかわかんなくて。つんく♂さんに『夢、まだ決まってないんですよ』って言ったんです。そしたら『じゃ、そのままのことを言えばいいよ』って」(後藤)
当時の後藤はこの曲の中で、実際に「今、わたしは自分の夢をじっくり考えています」と語った。一方、同じ曲の中で石黒は、自分の夢をこう語っている。
「わたしの夢は、巨乳になること」。
やっとの思いでデビューをし、華々しい栄光とその後の人気の陰りを体験し、そこから持てる力の全てを『LOVEマシーン』に注いだ1999年。本当の夢を語らなかった石黒は、このときにはもうアイドルとしての今日ではなく、一人の人間としての明日を見つめはじめていた。
12月31日、モーニング娘。は『LOVEマシーン』で2回目のNHK紅白歌合戦出場を果たす。つんく♂にも同曲での活躍が大きかったと評されていた石黒は、このステージをもってモーニング娘。としてのテレビ出演を終えた。
「明るい未来に 就職希望だわ」
1999年の「世紀末」も、人々を明日へと振り向かせていた国民的アイドルグループ。その歌声とともに、平成ニッポンは2000年代への扉を開く。