55歳になったプロレスラー・永田裕志が、第2の黄金時代を迎えている。新日本プロレスに所属したまま、今年2月には全日本プロレスの至宝・三冠ヘビー級王座を奪取。
これまで永田は新日本のIWGPヘビー級王座、プロレスリング・ノアのGHCヘビー級王座を戴冠してきたため、史上5人目となるメジャー3団体のグランドスラム達成を成し遂げたのだ。54歳9カ月での三冠ヘビー級王座獲得は、天龍源一郎が保持した最年長記録(52歳2カ月)を更新することにもなった。

写真】三冠ヘビー級ベルトと共に、永田裕志の撮り下ろしカット

しかし熱心なプロレスファン以外は、現在の永田が新日本マットの外部で輝きを取り戻していることすら知らないのではないか。常に新しいスターが誕生するプロレス界において、55歳というのは「あの人は今」状態になってもおかしくない年齢。一般的な企業でも、最前線の現場でバリバリ働くのが厳しくなるものだ。「窓際族? 老害? どう言われたって、自分は気にしません」そう語る永田にサラリーマンにも通じる“もう一花の咲かせ方”を聞いた。
(前後編の前編)

     *     *     *

「ここ1年くらいの間で、自分を取り巻く環境がすごく変わってきたんですね。出向みたいなかたちで全日本の試合に出るようになり、そこでファンの方に声援を送っていただきながらチャンピオンにもなることができまして。こんなことになるなんて、僕自身もまったく予想していなかった。

昔、大御所の先輩に『見ている人は絶対どこかで見ているからな』って言われたことがあるんですよ。そのときはピンと来なかったけど、今はその意味が非常によくわかる。どんなことがあっても腐らず、自分の刀を磨き続けることが大事だったんだなと」

アマチュアレスリング(グレコローマン)で数々の実績を残した永田は、1992年に新日本へ入門。
UWFインターナショナルとの対抗戦で桜庭和志らと激闘を繰り広げるなどして、頭角を現すようになる。99年にIWGPタッグ王座を獲得すると、そこからは一気に団体の中心選手に。2002年からはIWGP王者の最多防衛記録を更新し(当時)、エースとして牽引する存在となった。

「だけど、12年からはIWGPにまったく絡んでいません。つまり10年以上、新日本のトップ戦線から遠ざかっているんです。中でも一番精神的にキツかったのは、15年に行われた1・4(東京ドーム大会)。
このときは本戦の試合ではなく、第0試合として15選手が出る時間差バトルロイヤルでの出場だったんです。

正直、自分は団体に必要とされていないんだなって一瞬だけ自暴自棄になりかけましたよ。でもね、そこで新日本を辞めようとは思わなかった。プロレスを離れようとは考えなかった。それどころか『見てろよ』って闘志に火がついて、気がついたらドーム翌日の後楽園大会でインターコンチネンタル王者だった中邑真輔に挑戦表明していました」

結果的に、このベルト奪取は失敗に終わる。しかし永田VS.中邑戦が行われた仙台大会は前売り段階でチケットが完売し、超満員札止めになるほどの大反響を巻き起こした。
東京から遠征して駆けつけるファンの数も多く、「まだまだ俺はやれる」と永田自身も大きな手応えを感じたという。

「それと同時に試合内容には納得していない部分もありましてね。『こんなものじゃないだろ、俺は』という憤りもすごく大きかった。当時の新日本はメインを任されるのが中邑や棚橋弘至といった若手選手に移っていたけど、ある意味、これは当然のことなんです。プロレス団体にとって、選手というのは商品。会社としては常に新しい商品を開発する必要がありますから。
じゃあ逆に我々ベテラン勢はどうするべきか? 自分という商品を絶対に錆びつかせないため、粛々とコンディションを整えていくだけですよ。毎日、道場に通って、多摩川の周りを走って……」

永田が指摘するように、団体側が常に新しい話題を提供しようと意識しているのは事実だろう。だが一方で地方開催される大会に足を運ぶと、永田のほかにも天山広吉や小島聡といった“第三世代”に絶大な声援が送られている現実を目の当たりにする。メディアでの取り上げられ方とは別の力学がプロレスの世界では働くこともあるのだ。

「一時期はファンの声援だけが唯一のモチベーションだったかもしれません。今だって僕が何よりも気にするのはファンの意見ですよ。
たとえば昨年末からしばらく膝の調子が最悪で、自分的に満足な試合ができない時期があったんですね。なんとか2月の三冠王座の防衛戦までには治すことができたけれど、目の肥えた全日本ファンは、そういうところも絶対に見逃さない。『なにがグランドスラムだよ。動きが悪いじゃねぇか』とか言われるわけです。

今はSNSを通じてファンの声が嫌でも目に入ってきますから。試合順が前のほうでも、いい試合をすればファンは支持してくれる。ベルトを持っていても、不甲斐ない試合をすればファンからは厳しい声が飛ぶ。結局、僕は団体のためでもマスコミのためでもなく、ファンのために闘い続けているんですよね」

現在の永田は全日本マットを主戦場にしており、新日本ではほとんど試合を行っていない。普通に考えれば全日本での試合は永田にとって完全アウェーとなりそうなものだが、実際は昔からの新日本ファンが全日本のチケットを購入して応援するケースが目立つという。オカダ・カズチカや内藤哲也といった選手が現在の新日本の主軸となっているが、それとは別のニーズもファンの中に存在するということだろう。

「窓際族? 老害? どう言われたって、自分は気にしません。やるべきことをやるだけですから。自分のスキルをしっかり磨いておけば、窓際からド真ん中に戻れるかもしれないし、戻れなくても窓際で別の花を咲かせることができるかもしれない。これは会社員の方だって同じだと思いますよ。とにかく状況のせいにはしない。腐らない。自暴自棄になって辞めない」

永田のプロレス人生には転機がいくつかある。02年1月、新日本の看板選手だった武藤敬司は小島聡やケンドー・カシン、さらには経理部門のトップ社員などを伴って全日本への電撃移籍を果たした。その後も新日本を離脱する選手は後を絶たず、団体の屋台骨は大きく揺らぐこととなる。このとき、チャンピオンとして必死に立て直しを図ったのが永田だった。

「その後、先輩レスラーたちは何食わぬ顔して戻ってきたんですよ。こんなみっともない話はないって僕は思いました。彼らが団体を離れてフリーになったとき、『新日本にいる奴らは甘えている。俺たちは明日生きるか死ぬかわからない立場だから』なんて偉そうに言っていた。ふざけるなっていう話ですよ。

寄らば大樹なんて考えは最初から一切なかったし、むしろ会社が一番苦しいときに逃げ出すほうが無責任だろうというのが自分の主張。正直、当時の新日本は内部でもいろんな思惑が入り混じっていてグチャグチャの状態でした。『ほかのところでやってみないか?』という声は僕にもかかりましたが、逃げ出すような真似はしたくなかった。辞めないで残るというのは僕なりの覚悟だったし、この逆境を跳ね返してやろうと燃えていたんですよね」

【後編はこちらから】戦犯と呼ばれて…永田裕志「誰かが“幻想”を崩す必要があった。それが自分の格闘技戦だったんです」

▽永田裕志Produce Blue Justice XII ~青義回帰~
永田選手、地元・千葉県での自主興行。今年は12回目となる大会を佐倉市民体育館で開催。
日時:6月18日(日) 14:30開場 16:00開始
会場:千葉・佐倉市民体育館
URL:https://www.njpw.co.jp/tornament/414850
※出場選手・対戦カードは決定次第発表