プロレスラー・永田裕志が、55歳で第2の黄金時代を迎えている。現在は全日本プロレスの三冠ヘビー級王者に君臨。
新日本プロレスとプロレスリング・ノアも含めたメジャー3団体のシングル主要ベルトを制覇(グランドスラム)したのは、史上5人目だ。

【写真】第二の黄金時代へ…三冠ヘビー級ベルトと共に、永田裕志の撮り下ろしカット

1992年に新日本入りした永田は、同時期にデビューした天山広吉、小島聡、中西学らと並んで「第三世代」と称される。上の世代で睨みを利かせていたのは国民的な人気を誇った武藤敬司蝶野正洋、橋本真也の「闘魂三銃士」。下の世代にはプロレス暗黒期からのV字回復を成し遂げた立役者・棚橋弘至、中邑真輔らがいた。彼らに比べると、第三世代は不遇をかこっていたというのが多くのファンの意見だろう。

なにしろ永田がIWGPヘビー級王者の最多防衛記録を更新していた2002~03年当時はPRIDEなど総合格闘技の全盛期。
新日本では選手の離脱が相次いだうえ、フロントの体制も混沌としており、ファン離れが急加速したからだ。何をやっても上手くいかない、苦しい時代。だが、前線で引っ張った永田に当時付けられたのは“戦犯”というレッテルだった…。いま考えると理不尽とも思える状況を永田はどう考えていたのか。ドン底時代のサバイブ術を聞いた。(前後編の後編)

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「たしかに苦しい時代ではあったけど、自分が不運だったとは考えていないんですよね。
それを言ったら棚橋選手や中邑選手だって相当悔しい思いを重ねていたはずだけど、絶対に逃げなかったですから。そこは本当に素晴らしかったと思う。やっぱり会社を背負う立場になると、いろんな苦悩が出てくるものなんですよ。そこに世代や時代は関係ない気がするな。

棚橋選手や中邑選手の世代が新日本の柱になったとき、上の世代にあたる僕たちも『なにくそ!』って感じでガンガン攻めるような試合を繰り返したんです。世代交代を認めたくなかったですからね(笑)。
だけど、彼らは負けじと向かってきた。このへんはリングに上がった者同士にしかわからない感覚かもしれないけど、すさまじい覚悟が伝わってきました」

とは言うものの、永田らの世代に同情の声が集まるのは他にも理由がある。一番の悲劇は格闘技戦に駆り出されたこと。当時の新日本は、PRIDEやK-1といった格闘技の勢いに完全に呑まれていた。永田も01年にミルコ・クロコップと、03年にはエメリヤーエンコ・ヒョードルと対戦。いずれも惨敗している。


「最初のミルコ戦は自分の意思もあったけど、2回目のヒョードル戦は2度断っているんですよ。だけど最後は(故・アントニオ)猪木会長に恥をかかせるわけにいかないということで、不承不承、対戦することになりまして……。あの頃はマスコミも含めて『プロレスこそが最強の格闘技』という幻想が残っていた。だけど、誰かがどこかのタイミングでその幻想を崩す必要があったんですよ。結局、僕はその捨て石になったということです」

当時はプロレス幻想を打ち壊した“戦犯”とも言われたが、今振り返ってみると、永田の主張は一理も二理もある。現在は観戦リテラシーも上がり、格闘技とプロレスは完全な別物と誰でも知っているはずだ。
たとえばオカダ・カズチカや内藤哲也のMMA参戦を期待するファンはほぼ皆無だろう。だが「キング・オブ・スポーツ」を標榜し、ボクシングや空手などの他競技を巻き込んで異種格闘技戦を行ってきたのは他ならぬ新日本。肥大化した観客の幻想に、どこかで終止符を打つ必要があった。

「その結果、どうなったかといえば『プロレス凋落のA級戦犯』と散々バッシングを浴びて……(苦笑)。会社としても『永田は傷物になった』ということで、新日本の柱からは外れていったわけです。ただ、その誰も望まない役をやるのが僕しかいなかったのも事実なんですよ。
武藤(敬司)さんたちは新日本を離れていたし、僕にはアマチュアレスリング(グレコローマン)の経験もあったし。あとは若手だと中邑選手も格闘技に対応できるということで巻き込まれていましたけど。

もう少し早く生まれていたら、あるいはもう少し遅くプロレスラーになっていたら、こんなババを引かないで済んだのではないか? 少しだけ、そう考えたこともありますよ。でも、そう考えると自分が惨めになるじゃないですか。だから気持ちを切り替えて、プロレスのリングでガンガンやり合っていましたね」

あまりにも理不尽な話だが、サラリーマン社会でも見られる光景かもしれない。会社命令によって望んでもいないことをやらされて、その結果がダメだったら『傷物になった』と責任を取らされる。永田の場合、やり場のない怒りをひたすら試合にぶつけた。その結果、生まれたのが白目でのファイト。誤解されがちだが、あの白目はコミカルに大向こう受けを狙ったのではなく、憤懣やるかたない怒りの表現なのである。

「猪木さんは口を酸っぱくして『プロレスとは怒りの感情だ』と言っていたんですよ。よくやく僕も試合で殺気を出せるようになったのが、その頃。それは顔を作るとかいう話ではなくて、感情を爆発させる行為ですね。どんな職業でも、キャリアを重ねるからこその苦しみってあると思うんです。

僕の場合は試合にそれを投影していますが、会社員の方もストレスを発散する場所は持っていたほうがいいかもしれませんね。一番いいのはジムとかで身体を動かして、おもいっきり汗を流すこと。狂ったようにカラオケで発散してもいいと思う。場合によっては、それがお酒でもいいんじゃないですかね。ただし、周りに迷惑をかけないという条件つきですが(笑)。たとえ窓際に追いやられても腐らず、自分で居場所を作っていこうと踏ん張れば、道は自ずと開けていくんじゃないでしょうか。絶対に誰かはあなたのことを見ていますから」

そんな永田は、6月18日に自主興行を開催する。これまで自主興行は地元・東金市で毎年開催してきたが、佐倉市で行うのは初めて。千葉県はプロレス興行が苦戦する土地といわれているため、レスリング文化を根づかせたいという思いもあるようだ。

「会場の佐倉市民体育館って、自分にとってレスリング人生の原点なんです。84年6月にインター予選で初めて試合をした場所ですから。それで最後に試合したのが87年の7月だったかな。でも、いつかここでプロレスの試合をしたいというのは頭にありました。当時の仲間が今は市役所に勤めていたりもするから、細かいところで融通が効くのも助かっています。今日も『2階の椅子、少し古くなっていない?』なんて会場の下見をしながら打ち合わせしてきましたしね。全力ファイトで会場を盛り上げるのは当然だとして、とりあえず自分の最大任務としては大会当日まで三冠ヘビー級のベルトを死守しなくてはいけない(笑)」

引退して第二の人生を歩み始める同年代のレスラーが目立つ中、自身に関しては「IWGPヘビーのベルトを再び巻くまで現役を辞めるつもりはない」と明言。現在の永田はレスリングチームのスカウトや監督業務も行っており、それとは別に自分の会社も設立している。つまり選手を辞めても生活に苦労することはないのだが、完全燃焼しないことには自分で納得がいかないのだという。波乱に満ちた永田のプロレス人生、ここからさらなるドラマを生み出しそうだ。

▽永田裕志Produce Blue Justice XII ~青義回帰~
永田選手、地元・千葉県での自主興行。今年は12回目となる大会を佐倉市民体育館で開催。
日時:6月18日(日) 14:30開場 16:00開始
会場:千葉・佐倉市民体育館
URL:https://www.njpw.co.jp/tornament/414850
※出場選手・対戦カードは決定次第発表