【前編はこちら】競馬芸人・キャプテン渡辺の葛藤「“芸人”を名乗っておきながら、レースの予想しかしていない」
【写真】競馬芸人・キャプテン渡辺
キャプテン渡辺と競馬の蜜月関係は1996年から始まった。お笑い芸人を志し大阪へ向かった二十歳の渡辺青年は、バイト先の友人に連れられて行った宝塚記念で、馬連を見事的中。この勝利で競馬の面白さに目覚め、ほぼ休みなく見続け、気づけば27年が経過。彼の芸人の歴史を裏返すと、そこには彼の競馬の歴史も色濃く刻まれている。ここから、これまでの足跡を追うと同時に、競馬にまつわる深い想い出も聞くことに。
忘れられない想い出として真っ先に上がったのは1998年夏のこと。「ここから僕の人生の歯車は大きく狂いだしていった」と、日本ダービーの苦い記憶について語りはじめた。
「僕より競馬に詳しい友だちと一緒に大阪の場外馬券場に買いに行き、スペシャルウィークとキングヘイローの馬連を9万円分買いました。残った1万円分はボールドエンペラーの馬連に当てようとしたら、『そんなの絶対、来うへんで!』と友だちにデカイ声で言われて。まあ、詳しいヤツが言うならそうかも……と、タヤスアゲインの馬連に変えたんです。
そうしたら、思いっきりボールドエンペラーが2着に来た!その倍率、なんと131倍。
この当時はバラエティタレントの育成コースがある専門学校内で組んだ相方が芸人を辞めてしまい、一人になった僕はパチンコと競馬しかしない日々。そのせいもあり、ここから約15年に渡る怒涛の借金生活が始まってしまうんです。あの時、友人の声に耳を貸さずボールドエンペラーの馬連を買っていれば、間違いなく借金生活は回避できていたはず。しばらく友人を恨みましたよ(笑)」
専門学校卒業後はひたすらフラフラと過ごしていたが、2000年に入り現状を打破するため、初の上京を敢行。目まぐるしく変わる環境、唯一変わらなかったのは競馬への熱。中でも、テイエムオペラオーへの想いは熱かった。
「当時の僕は本命馬券派で、オペラオーとメイショウドトウには、たくさん勝たせてもらっていました。プラス、オペラオーは当時から世間的評価が低く、それが非常に腹立たしかった。年間無敗、しかも史上初の古馬中長距離GI完全制覇の馬が、なぜ不当に下げられなければいけないのか⁉って、激怒していました。
この頃は、専門学校の先輩のジャック豆山とコンビを組み、各事務所が開催していたネタ見せライブに出演しまくっていたのですが、全く箸にも棒にも掛からない毎日。なのに、心では、『俺はダウンタウンを超えられる!』って死ぬほど尖っていました(苦笑)」
まさに当時は無敗・オペラオーの如き勢いだったのだろう。その意気とはうらはらに、4人組のお笑いユニットなど様々挑戦するも生活は向上せず。
「家賃5万8000円の家に住んでいて、支払いが迫る中、手元には1万5000しか残っていない状態。その手元を僕が最強のダート馬だと思うクロフネと、前年の優勝馬だったウイングアローの馬連に託しました。このレースは、クロフネが圧倒的な強さを見せ、場内から『クロフネ!』の大合唱が起こったんです。
ただ、僕だけはその歓喜の中、ウイングアローを祈る気持ちで見ていました。ただ、ペリエ騎手が騎乗したノボトゥルーがメチャクチャ粘るんですよ。もうあまりに粘るので、怒りのあまり「ペリエ、お前はいいんだよ‼」と絶叫したほど(笑)。その粘りを最後、ウイングアローが外からキッチリ差して2着に入ってくれたときは、スゲエ気持ちよかった。この瞬間だけはウイングアローにクロフネ以上の愛着が湧きましたね」
競馬では楽しい時間が訪れるも、芸人としてはままならない日々は続き、一度は大阪に戻り芸人とは違う道を選択。2004年春、そうした挫折と並行するように、天皇賞で今も思い出すだけで血が泡立つような悔しさを経験することに。
「毎週日曜になると、専門学校時代にお世話になったギャンブル狂の先生と一緒に、テレビがついた居酒屋で昼から酒飲みながら競馬を見ていたんです。天皇賞当日もいつも通り二人で飲んでいたのですが、前日に軍資金だった5万円をまさかパチスロで全部溶かしてしまって(苦笑)。
ありがたい!って。出走が決まってからイングランディーレを軸にザッツザプレンティ、リンカーン、そしてゼンノロブロイの馬連だな……と決めていたのですが、当時の僕は愚かだった。その3つを600円ずつ買えば良いものの、なぜかゼンノロブロイを切ってしまった。そうしたら案の定見事にゼンノロブロイが来たわけです。その倍率がなんと360倍‼悔しさのあまり、その場でひっくり返りました。
だって1000円分買っていれば36万の勝ちですよ。36万が29歳の借金まみれの男にとってどれだけ大きいか。なんなら前の日にパチスロ打たなかったら360万円が手元に入ってきたわけです。そうなると、借金全額返済どころか、人生も大きく変わっていたはず。もうダブルの悔しさ!その時は、先生に対し『3000円くれよ!それなら1000円ずつ賭けられたでしょ!』と、なぜか逆恨みする始末(苦笑)。
気づけば30歳を迎えた。もう一度己に奮起を促し、再びお笑いの道に進むと決心し二度目の上京、トリオ「キラッキラーズ」を結成する。しかし、待っていたのは朝から夕刻までのバイト、終われば小金井公園に集まり深夜までネタ合わせの毎日。濃厚すぎる苦難ゆえ、当時の記憶はほぼないという。競馬でも思うような勝ちに恵まれず、ほどなくして2010年にキラッキラーズは解散。ピン芸人としての道を歩むことに。
「まさに地獄の日々でしたね」
しかし、このピン芸人という“ギャンブル”が見事的中、2010年、R-1で準決勝に進むと、翌2011年には決勝進出。“クズ漫談”で衝撃を与えると翌年も決勝進出。順調にメディア露出を増やしていく中、今なお続く『ウイニング競馬』のレギュラーに大抜擢される。気づけば今年で番組レギュラー就任12年目に突入。今年3月には初の著書『神の馬券術 年間収支をプラスに変える43の奥義』(KADOKAWA)も上梓。競馬芸人としての座を確立した。
「最近Xで、キャプテンと同じ買い方して勝ったという方からの報告が来て。まあ悪い気はしませんよね」
思わず頬が緩んだ。
波乱万丈の人生に寄り添うように、競馬は常にキャプテン渡辺の傍にいた。いよいよ競馬歴も30年も目の前。改めてキャプテン渡辺にとっての競馬とはなんなのか?
「僕にとって競馬は最強の趣味、これは間違いない。まず、日曜の大レースに向けて、月曜から予想を立てていって、週末を迎える。それだけで1週間ムダなく過ごせます。しかも、歳をとって孤独になっても、競馬好きの集まる場所に行けば、すぐ友だちができる。競馬って不思議なもので、初対面の人でもすぐ繋がるんですよ。もし孤独な人がいたら、迷うことなく競馬を推奨したい。
競馬から学ぶこともありましたね。まず、人の言うことを信じるな!世の中のあらゆる予想が、もうアテにならない(笑)。