2021年夏の移籍マーケットが近づく中、世界の注目を集めているのはバルセロナのアルゼンチン代表FWリオネル・メッシの行く末である。
今夏で契約満了となるメッシには、バルセロナが残留交渉に乗り出しているものの、マンチェスター・シティーとパリ・サンジェルマン(PSG)が移籍先候補に浮上している。
2004年からバルセロナを支え続けたエースのメッシが他のクラブに移籍した場合、バルセロナは恐らく苦しい時代へと向かうことになるだろう。
ここでは、メッシのようにクラブにとってかけがえのない存在となった欧州サッカーレジェンド7人を紹介しよう。彼らが去った後にそれぞれのクラブは長い低迷期に突入した。

ルイス・フィーゴを手放したバルセロナ
バルセロナがメッシの移籍を恐れる理由の1つは、過去にすでに苦い想いをしているからだ。元ポルトガル代表MFルイス・フィーゴを手放した時である。
1995年から2000年にかけてフィーゴは2度のリーガ優勝(1997/98、1998/99)やUEFAスーパーカップ優勝(1997)など、バルセロナの多くのタイトル獲得に貢献したが、2000年7月にブラウグラナ(バルセロナの愛称)の永遠のライバルであるレアル・マドリードに移籍することとなった。
その後のバルセロナは、元ブラジル代表FWリバウドなどのスーパースターが揃いながらも、2004/05シーズンのリーグ優勝までに1つもタイトルを獲得できない時期が続いた。ちなみにようやくの優勝を果たしたのは、新たなエース、メッシがトップチームに上がったシーズンである。

クリスティアーノ・ロナウドを手放したレアル・マドリード
2000年にバルセロナから上述のフィーゴを獲得したレアル・マドリードも、2018年7月にクリスティアーノ・ロナウドのユベントスへの移籍を認めたことで、混乱の日々が続いた。
ラ・リーガ2018/19シーズン、王者となったバルセロナと勝ち点21の差でマドリードは3位。翌2019/20シーズンにはマドリードが優勝するも、バルセロナの不調によって実現できたものだと思われた。ロナウドが退団以降、マドリードの得点力が急激に落ちたことは紛れもない事実であった。
チャンピオンズリーグ(CL)でもかつてのように順調ではない。ロナウドがチームを離れる前には3連覇を果たしたマドリードだが(2015/16、2016/17、2017/18)、現在そのCL優勝をはほど遠く感じているサポーターが多いだろう。

クロード・マケレレを手放したレアル・マドリード
ロナウドだけではなかった。レアル・マドリードはさらに遡った過去にも重要な選手を手放し、苦しんだことがある。その選手とは2003年にチェルシーへ移籍した元フランス代表クロード・マケレレである。
マケレレはマドリードを離れる予定ではなかったが、フロレンティーノ・ペレス会長が彼を必要としていなかったのだという。当時は同クラブの選手だった現監督のジネディーヌ・ジダンをはじめ、多くのプレイヤーが会長の判断に反発したようだ。
確かにジダン、フィーゴ、ラウルなど、多くのスター選手が揃う中では、マケレレのプレーはさほど目立たなかったと言えるが、攻撃的な選手ばかりのマドリードには彼の守備的に安定したプレーが大変重要なものであった。彼の献身的な働きが、同クラブを2度のリーグ優勝(2000/01、2002/03)とCL優勝(2001/02)に導いた。
マケレレの退団後、マドリードは欧州大会の優勝から10年以上遠のいている。

アンドレア・ピルロを手放したミラン
セリエAの中で多くのサポーターの記憶に残っている最大の失敗と言えば、ミランがアンドレア・ピルロをユベントスに引き渡したことだろう。
ピルロは2度のCL優勝(2002/03、2006/07)に貢献するなど、10年(2001-2011)に渡ってミランを支えていた。現役引退まで同クラブに残ってもおかしくはなかったが、2011年から監督となったマッシミリアーノ・アッレグリの元では出場機会がさほど得られなかったこともあり、2011年5月に現在は監督として指揮するユベントスに移籍することとなる。
ミランの栄光の時代はそこで完全な終わりを迎え、現在はCLはおろか、国内リーグも優勝できないシーズンが続いている。一方、ピルロが移籍したビアンコネーリ(ユベントスの愛称)は国内サッカーの頂点に再び立ち、現在セリエA9連覇中という記録的な王者となった。

ミシェル・プラティニを手放したユベントス
2011年にピルロの獲得で栄光を取り戻したユベントスにも、かつて1人の選手が引退したことで約10年もの間タイトルを獲得できない無冠のクラブとなった過去がある。そのかけがえのない選手とは元フランス代表MFミシェル・プラティニだ。
ユベントスは、1982年から1987年にかけてプラティニの存在によって、リーグ優勝(1983/84、1985/86)やCL優勝(1984/85)などを達成することができた。また、ビアンコネーリで自己ベストパフォーマンスを引き出せた同選手は、3度のセリエA得点王(1982/83、1983/84、1984/85)となり、3度もバロンドール(1983、1984、1985)を受賞した。
一方、1985年末に痛めた左足踵の炎症から回復できず、痛みを庇いながらプレーを続けていたプラティニはフォームを崩し、1986/87シーズン終了後に32歳の年で引退することを決意した。その後ユベントスは10年ほど、国内リーグでさえもそれほどの成績を残せなかった。

ヨハン・クライフを手放したアヤックス・アムステルダム
オランダのアヤックス・アムステルダムが国内タイトルを獲得するのは珍しいことではない。これまでに34回も国内リーグ、エールディヴィジで優勝をしている。しかし、継続的に欧州大会の頂点に立ったのは、ヨハン・クライフが所属していた時(1964-1973)のみであった。
クライフがいたことによって、アヤックスはCL3連覇(1970/71、1971/72、1972/73)、UEFAスーパーカップ2連覇(1972、1973)などを果たしている。
ところが、クライフが1973年の夏にバルセロナに移籍すると、アヤックスは20年ほど欧州大会のトップから姿を消した。次に国際的なトーナメントを制覇したのは1991/92シーズン、ヨーロッパリーグ(EL)優勝を果たした時である。

フランツ・ベッケンバウアーを手放したバイエルン・ミュンヘン
アヤックスとほぼ同じタイミングで同様の苦い想いをしたクラブがもう1つある。それは、2019/20シーズンのCL優勝を果たしたバイエルン・ミュンヘンである。
アヤックスの栄光の時代が終わった1973年から、バイエルンは元西ドイツ代表MFフランツ・ベッケンバウアーの活躍によってCL3連覇(1973/74、1974/75、1975/76)を果たすことができた。
しかし、ベッケンバウアーが1977年にアメリカのニューヨーク・コスモスへ移籍をすると、バイエルンは混迷の時代に陥り、再び欧州大会(EL1995/96)を制覇するまでに20年もの時間を要している。この時、同クラブを優勝に導いたのは監督として戻ってきたベッケンバウアーだった。