クラブ史上最高の時を過ごした2023シーズンのアビスパ福岡。長谷部茂利監督をはじめとするスタッフ陣や選手、クラブに関わるすべての人たちが勝ち取ったYBCルヴァンカップ(ルヴァン杯)優勝のほか、福岡の長い歴史の中で最高順位(J1リーグ7位)となる成績を残した1年だった。
この快挙は、今までクラブに関わり歴史を紡いでくれた人たちのおかげでもある。そこで、アビスパ福岡のレジェンド、神山竜一氏とMF鈴木惇選手(FKスードゥヴァ)にインタビューを行った。この後編では、主に2人が福岡でプレーしていた時期について訊いた。(※記事内、敬称略)
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15年前の出会いと苦い記憶
立正大学淞南高等学校を卒業し2003年にアビスパ福岡へ入団した神山竜一と、2008年に福岡のユースからトップチームへ昇格した鈴木惇。5歳差の2人に、当時のお互いの印象を尋ねた。
神山「(鈴木)惇がトップチームに来た時点で、ユース所属でしたけど名前は知っていました。自分と喋っているときは可愛い後輩、良い子。けれど、サッカーになると頑固(笑)今でこそだいぶ柔らかくなったと思うんですけど、若い時は周りの言うこと何も聞かない(笑)それぐらい頑固でした。ユースから来た時からすでに、サッカーに入ったら先輩後輩関係なく臆さずガンガン言うタイプでした。そこは本当に凄いなと思いましたし、それが惇の良さですね」
鈴木「高校2年生で初めてトップチームの練習に参加した時は、まだトップチームとサテライトが結構はっきり分かれていた時期。トップチームのGKが水さん(水谷雄一)と神さん(神山)でした。プロの練習に入ってもポゼッション練習だとかはなんとか対応できたんですけど、ユースでは止められることのほとんどなかったシュート練習が、トップチームではマジで入らない。シュート練習をやった時に『このままじゃ通用しない』とわかりました。
あと、観客席から見ていたら、GKと1対1になったら『ゴールだ!』と思うじゃないですか。でも神さんと1対1になると身の危険を感じた。恐怖を感じたのは神さんだけですね。僕にとって、水さんと神さんは『これがプロなんだ』と差を感じた選手です」
鈴木はU-16から年代別日本代表の常連で、ユースにいた頃から有名な存在だった。当時のことに話を向けると、意外な答えが返ってきた。
鈴木「U-18の時は結構苦しくて、記憶があまりないんです。小学3年生で(アビスパ福岡の)アカデミーに入って高校1年生までずっと、橋川和晃さん(現・アルビレックス新潟レディース監督)のもとでやってきた。でも、高校2 年生になる時に初めて監督が変わってから苦しみました。今は34歳にもなったのでいろいろな人から学ぼうという気持ちがあるんですけど、若い時は自分と考えが違うと全然受け入れられなくて。そういうしんどい記憶は消しちゃうのか、あんまり覚えてない。クラブの計らいでトップチームの練習に参加させてもらい、再びサッカーを楽しめるようになりました」

初めてのJ1昇格と降格
神山と鈴木、2人が初めてJ1昇格を味わったのは2010シーズン。福岡は篠田善之監督のもとで若手とベテランが融合し、夏場にはFW城後寿が左膝前十字靱帯損傷の大怪我から復帰して得点を重ねた。ジェフユナイテッド市原・千葉や東京ヴェルディなどを抑え、3位でJ1への切符を掴み取ることに成功したシーズンだった。
神山「チームとして仲が良かったです。それに久藤(清一)さんとか大久保ジャンボ(大久保哲哉)とか田中マコ(田中誠)さんのようなベテランが上手くマッチしていた。だから雰囲気も良かったし、勝ち切る力がありました。城後は大怪我から帰ってきて、チームの流れに乗って点を重ねてくれました。努力の賜物ですし、普段のサッカーに対しての情熱や謙虚な姿勢が出たのかなと思いますね」
J1で迎えた翌2011シーズンは、東日本大震災の発生によって第1節終了後に中断となった異例の年。第7節から再スタートになると、福岡は開幕から合わせて9連敗。神山は17試合、鈴木は30試合に出場し試合には絡んだものの、チームは18チーム中17位でJ2降格となった。
神山「記憶から抹消しています(笑)というぐらい、自分は不甲斐なかった1年でした。個人としてJ1で全く結果を出せず、チームの残留もできなかった。ことごとくシュートを決められたので、このままじゃダメだ、自分はまだまだ甘ちゃんだと思い知らされた1年でした」
一方、鈴木の感想はやや異なる。
鈴木「僕は逆に、2010年は自分としては納得いかないシーズンだったんですけど、2011年はマチ君(中町公祐)が怪我していたので結構試合に出られた。なので試合に出られてラッキーというか嬉しいというか。
そんな中、2人に共通するつらい思い出がある。
鈴木「マコさん(田中誠)が2011年限りで引退したんですけど、最後の試合がセレッソ(大阪)とのアウェイゲームで1-7。負けて、マコさん泣いていたんです。本当に申し訳なかった」
神山「本当につらかった。俺、マコさんに謝ったもん。『すみません、こんな試合で』って。そしたら、マコさんは『仕方ないよ』って。あれは申し訳なかった」
鈴木「あれは消したい記憶でも、消せないものがあります」

歓喜の2015年と失意の2016年
その後、鈴木は2013~2014シーズンに東京ヴェルディへ移籍。ちょうどその間、福岡は2008シーズン途中までチームを率いたリトバルスキー氏以来となる外国籍監督を招聘していた。スロベニア出身のマリヤン・プシュニク氏。順位は振るわなかったものの、超攻撃的なサッカーを展開し若手のMF金森健志らを積極的に起用した。
神山「ある意味、新鮮で面白かったですね。
監督が話す内容は凄いし、サッカーに対しては厳しくて要求も高かった。そこになかなか自分たち選手がついていけなかった部分があったと思います。自分たちGKはビルドアップのところを言われて、自分は得意じゃないので結構言われました。『相手が(プレッシャーに)来たらドリブルでつっかけて行って横パスすればいいんだよ』と言われ見本を見せてもらったんですけど、そのリスクは負えなかった。でもいろいろな経験ができたので、プシュニクのもとでやれたことはよかったなと思います」
鈴木が福岡へ戻った2015シーズン、チームは井原正巳氏(現・柏レイソル監督)を監督に招聘。選手時代「アジアの壁」と呼ばれた日本を代表するディフェンダーの監督就任に、サポーターは驚き期待は高まった。
鈴木「まず『テレビで見てた人だ』という印象でした。
前年までとは打って変わって手堅いサッカーで昇格争いに加わると、3位でJ1昇格プレーオフに進出。準決勝ではV・ファーレン長崎に勝利し、決勝ではセレッソ大阪に先制されながらも昇格を達成した。DF中村北斗の劇的同点弾で追い付いたこの決勝は、サポーターだけでなく2人にとっても思い出深い一戦だ。
鈴木「僕は怪我して上(スタンド)から観ていたんですが、(中村)北斗さんが決めた時は自分の目で観た映像として記憶に残っています。昇格が決まった瞬間、神さんと城後さんが最初に抱き合っていて。それを見て良かったという思いがこみ上げて、俺も泣いちゃいました。初めてサッカーで感動して泣いた試合です」
神山「その年自体が難しい状況のなか、惇や北斗、スエ(末吉隼也)といった1回アビスパを離れて戻ってきた選手が躍動してくれた。最後に北斗が決めた時は、自分のことのように嬉しかったです。(ベンチにいたため)試合に出てないのにあんなに喜ぶことはなかなかないんですけど、ちょっと泣いてました。
翌2016シーズンは今度こそJ1残留をと意気込んで臨んだものの、開幕戦でダービーマッチに敗れるとそのまま低迷。4年かけて昇格して1年で降格する「5年周期」から逃れられず、最下位でJ2降格となった。
鈴木「本当につらかった。開幕戦からいきなりダービーで、(サガン)鳥栖に負けましたし。僕はその年試合に出られず(リーグ戦出場9試合)、翌年は大分(トリニータ)にレンタル移籍しました」

昇格目前だった2017年~共闘の終わり
福岡はそれまで成績不振に陥るたびに繰り返してきた監督交代を選択せず、翌2017シーズンも井原監督を続投。この策はある程度成功し、リーグ4位でJ1昇格プレーオフに進出した。準決勝を突破し決勝へと進んだが、3位の名古屋グランパスに勝ち切れず(0-0)昇格とはならなかった。
神山「(名古屋に)目の前で昇格を決められて、試合後は悔しいという思いしかなかった。でも、リーグの順位で名古屋を上回っておけばよかっただけの話。それができなかったから悔しい思いになりました。ただ、あの光景は2度と見たくないですね」
鈴木「翌2018年に(福岡に)戻って再び井原さんのもとでやるんですけど。(2016年に)試合に出られず1年間外に出て帰ってきた自分を、また1からスタートの台に載せてくれました。シーズン途中からはキャプテンに指名されて、コミュニケーションを取ることも増えました。今は分からないですけど、井原さんは自分からたくさん喋りかけるタイプではなかったので『こう思うんですけどどうですか』と自分からガンガン喋りにいってました。2016年は試合に使われず『なんだよ』と思った時もあったんですけど、2018年の最後には『この監督のために全部出したい』という気持ちでプレーできた。そういう意味ではリトバルスキーと同じぐらい、自分の中では大切な監督ですね」
結果的に7位で惜しくもプレーオフ進出を逃したこの年をもって神山は福岡を退団。2人の福岡でのストーリーは終わりを迎えた。

印象深い監督と今後の2人、そして戦友へ
福岡に在籍中、多くの指導者のもとでプレーした2人。特に印象に残っている監督を挙げてもらった。
鈴木「デビューさせてもらったので、リトバルスキー(2007~2008シーズン途中まで指揮)ですね。チームとして結果は出なかったんですけど、シュート練習やボールの受け方、ターンの仕方だとかをよく1対1で見てくれたりして。今考えると贅沢でしたね。個人的に気にかけてもらっていたと思います。リトバルスキーのもとでプレーした選手は多分みんな思っているんですけど、チームの中で監督が1番技術は高く、なかでもキックの精度は右も左も本当に高かった。選手時代に世界一(ドイツ代表として1990年イタリアW杯優勝)になった人だから追い付けるとは思ってなかったですけど、自分も左足のキックには自信を持ってプロになりました。
でも監督はシュートを10本打ったら、7本か8本は確実にゴール四隅のボール一個分のところに行く。それを若い時に見られたので慢心することはありませんでした。それに、すごく負けず嫌い。それを見て(勝負に)こだわるところも学びましたし、気にかけてくれてデビューさせてくれて、クオリティの高さもたくさん見せてもらったので、誰かと聞かれたらパッと思い浮かびますね」
神山「自分は、大怪我したあとも試合に使ってくれた篠田監督(現・ヴァンフォーレ甲府監督)ですかね。篠田さんとは2010年にJ1昇格しましたし、その印象はデカいです」
鈴木は現在、リトアニアでプレーを続けており、現役への思いは強い。
鈴木「海外で現役をできるだけ長く続けたい。今年1年リトアニアでプレーをして、違う文化に触れて、凄く世界が広がりました。自分自身がもっともっと努力しなきゃいけないと感じられたので、それを活かしていろいろな国で視野を広げていきたいですね」
神山は福岡退団後ラインメール青森に移籍し、2020シーズンをもって引退。現在は福岡県の強豪、東福岡高校でGKコーチを務めている。
神山「自分がやってきたこと、良いと思ったこと、指導するなかで経験してきたことを高校生に伝えていけたらと思っています。GKって試合中はそんなにきつくないんですけど、1本のキャッチ、1本のセーブのために練習でハードワークしないといけないポジション。そのためにも練習量や練習の質に関しては、生徒たちに甘さなく、強く、厳しいかもしれないですけど伝えていきます。
選手を辞めて指導者をやりたいという気持ちはありましたけど、サッカーしかやってこなかったから社会勉強をしたくて、サッカーから一時離れていました。いろいろやった後で指導者に戻れたのは良かったですし、日々勉強です。選手をやるのとは全く違うので、そこは毎日面白さと難しさを感じています」
最後に現在の福岡へエールをお願いすると、チームとともに戦友へ神山らしい言葉をくれた。
神山「次で4年目とJ1に定着はしつつあるので、それを持続しつつ上位争いや優勝争いしていってもらえたら。あとはやっぱり、城後がいつ辞めるのか(笑)そこは引き続き注目しています。今年で20年目、凄くないですか。あとちょっとで500試合出場(現在J1およびJ2のリーグ戦通算487試合)なので、そこは現役中に達成してほしいですね」