プロ野球界では、日本時間10月31日に大谷翔平と山本由伸が所属するロサンゼルス・ドジャースが米大リーグ(MLB)のワールドシリーズを制覇し話題を呼んでいる。

山本は、元オリックス・バッファローズのスーパーエースとして、2022年チームを近鉄との球団合併後初の日本一に導き、3年連続沢村賞の肩書を引っ提げ、12年総額3億2500万ドル(約465億円)の大型契約でドジャース入りを果たした。
その金額に見合う活躍を見せ、ワールドシリーズ第2戦では先発し、7回途中までソロホームランのみの1安打1失点の快投を見せ勝利投手となり、ドジャースの4年ぶりの世界一に貢献。MLB1年目にしてチャンピオンリングを手にした。

そんな山本がMLB1の人気チームに天文学的金額で入団を果たすのを、ファン以上に熱い視線を送る竹馬の友がいる。それは現役Jリーガーだ。ここでは一流野球選手と、有名になる以前から交流のあるJリーガーを挙げ、知られざるエピソードとともに意外な交遊録を紹介したい。

ドジャース山本も!プロ野球選手と同級生だったサッカー選手3選

山本由伸(ロサンゼルス・ドジャース)&島村拓弥(柏レイソル)

今では“日本人ナンバーワン右腕”となった山本。生まれ故郷の岡山県備前市の伊部小と備前中の同級生に、現在、柏レイソルに所属するMF島村拓弥がいる。自身のインスタグラムでは島村との2ショットを「小学校中学校同級生のたくやとご飯にいきました。京都サンガ(当時)のプロサッカー選手です」のコメントを添えて公開するほどの仲だ。

山本は幼なじみの島村との昔話も披露し、「一緒にザリガニ釣りしたことと小学2年生の時にたくやが転校してきて小学校のマラソン大会でたくやに負けて1位になれなくなったことは忘れません」と、“強力ライバル”だったことを明かしている。

一方の島村も、J2ロアッソ熊本から移籍してきた今2024シーズン、リーグ戦先発7試合を含む27試合に出場し、3得点を記録。柏のJ1残留へ向け、重要なキーマンとなっている。

ボーイズリーグ時代から全国大会に出場し、宮崎県の都城高校へと進んだ後、ドラフト4位でオリックス入りした山本。
京都サンガのU-18に進み、そのままトップチームに昇格し、Jリーガーとなった島村。人口2万人にも満たない備前市から、一流アスリート2人を生んだことだけでも凄いことだが、その2人が同級生として義務教育9年間を共にした“奇跡”には「同じ学校に2人もプロ選手が…」「同級生なんて凄いー!しかもどっちもイケメン」「アスリートの宝庫」と驚きの声が上がった。

ドジャース山本も!プロ野球選手と同級生だったサッカー選手3選

高橋由伸(元読売ジャイアンツ)&森岡隆三(元清水エスパルス)

元日本代表DF森岡隆三は、フィリップ・トルシエ監督下トルシエジャパン(1998-2002)の看板戦術「フラット3」の申し子として主将を務め、2002FIFAワールドカップ日韓大会に出場した。グループリーグ初戦のベルギー戦で負傷するという不運に見舞われたものの、所属した清水エスパルス(1995-2006)では、1999シーズンのセカンドシリーズ、1996シーズンのヤマザキナビスコ杯(現ルヴァン杯)、2001シーズンの天皇杯優勝を果たしたチームの不動のキャプテンとして、タイトルをもたらした。

2008年に京都サンガで引退すると、2015/16シーズンには京都U-18、2017/18シーズンにはJ3ガイナーレ鳥取の監督を歴任し、2019シーズンには、古巣・清水に戻り、アカデミーアドバイザーやアカデミーヘッドオブコーチングを勤めた。そして今2024シーズン、2018年からアドバイザーを務めていたJFLクリアソン新宿のフットボールアドバイザー兼クラブリレーションズオフィサーに就任し、現在に至っている。

横浜に生まれた森岡氏だが、2つ年上の兄が東京ヴェルディのジュニアユースに所属していたものの、本人は将来を嘱望されるほどの選手ではなかったため、「家から近いから」という理由で難関私立の桐蔭学園中学を受験し合格する。そのまま桐蔭学園高校に進むと、サッカー部監督で後に東京Vで指揮を執る李国秀氏と出会い、MFからDFにコンバートされ実力を開花させていく。

場を教室に移すと、同じクラスには、中学のポニーリーグ「千葉ジャガーズ」時代にはエースで4番としてチームを全国大会2連覇を果たし、鳴り物入りで同校にスポーツ推薦で入学してきた高橋由伸(読売ジャイアンツ1998-2015、監督2015-2018)がいた。いきなり1年夏に甲子園に出場し、2年夏にも甲子園の土を踏んだ大スターと同じクラスで、席も前後。「よくベランダで話し合う仲だった」(森岡談)という。

高橋氏はその後、慶大入学後1年生からレギュラーとなり、1997年ドラフト1位で巨人(読売ジャイアンツ)入りして、ルーキーイヤーから活躍。巨人の第66代4番打者としても名を残した。
2015年オフに現役を引退して即、第18代監督に就任。常に陽の当たる道を進んできた。

それに対して森岡氏も、1年夏にレギュラーポジションを得て、全国高校サッカーにも出場。ユース世代の日本代表にも選出された。

しかし、1994年に鹿島アントラーズに入団するも、公式戦出場は1試合のみ。翌1995年夏には清水へレンタル移籍する(後に完全移籍に移行)。翌1996年に監督として清水にやってきたアルゼンチン代表のレジェンド、オズワルド・アルディレス監督との出会いによって見出され、さらに1998年から日本代表を率いたトルシエ監督の目に留まり、国際Aマッチ38試合出場(1999-2003)の記録を残すことになる。

森岡氏本人は「3年で芽が出なかったら大学に進学する」という思いでプロ入りしたと述懐しているが、その時すでに東京六大学野球のスターだった高橋氏は、なかなかチャンスが巡ってこない旧友を常に気に掛けていたという。そして高橋氏がプロの門を叩く頃、森岡も清水でレギュラーの座をつかんでいた。

文武両道を校是とする桐蔭学園だが、同じ学年、しかも同じクラスに、共に五輪にも出場(森岡氏=2000年シドニーのオーバーエイジ枠、高橋氏=2004年アテネ)し、後には日本代表主将と、球界の盟主・巨人軍の指揮官まで務めた超一流アスリートが机を並べていた。今となっては昔話となろうが、2人がどんな青春期を過ごし、どんな会話を交わしていたのか、気になるところだ。

ドジャース山本も!プロ野球選手と同級生だったサッカー選手3選

小林雅英(元千葉ロッテマリーンズ)&アマラオ(元FC東京)

ブラジルの名門パルメイラスの控えFWだったアマラオ氏。
1992年、レンタル元であるイトゥアーノFCの監督を務めていたジョゼ・テイシェイ氏がアドバイザーとして旧JFLの東京ガスサッカー部(後のFC東京)に加入したことに伴う形で来日し、レンタル移籍の形で入部した。

ヴェルディ川崎(1995-96)、名古屋グランパス(2003-2005)、そして柏レイソル監督時代(2009-2014)には、J2優勝(2010)、翌シーズンには即J1優勝(2011)を成し遂げ、日本代表監督にもリストアップされた。当時パルメイラスのネルシーニョ監督に慰留されながらも、自ら茨の道を進んだ。本人によると、日本でのプレーは1年と決め、パルメイラスに戻りブラジル代表を目指すつもりだったという。

当時の東京ガスサッカー部はJFL所属のアマチュアチームだけあって、劣悪な環境の下、ホームシックとも闘いながら1年間を過ごす。再びブラジルでプレーするために一旦は帰国したが、資金難に陥ったイトゥアーノからはレンタル期間の延長を求められ、自身も家族を支える必要があったため再来日。結局、湘南ベルマーレ(2004)を経て、2005シーズンJFLのFCホリコシ(2006年「アルテ高崎」に改称、現・高崎エヴォリスタFC)で引退するまで、長きにわたり日本サッカー界に貢献し続けた。

東京ガスサッカー部がFC東京となり、JFLからJ2、そしてJ1へと階段を上っていく過程にあって、チームメイトにプロとしての姿勢を叩き込み、自らも結果を残したことで付いたニックネームは「キング・オブ・トーキョー」。今でもFC東京のゴール裏にはアマラオ氏の顔のイラストが横断幕として張られているため、そのプレーは知らなくとも、顔は知っているという東京サポーターは多いはずだ。

片や、小林雅英氏(1999-2011プロ野球投手)は、山梨県立都留高校では1年からエースだったが甲子園とは縁がなく、高校野球の監督になるべく日本体育大学へ進学。首都大学リーグでは最優秀投手1回、ベストナイン2回を受賞し、3年秋の明治神宮大会や4年春の大学選手権で注目されたが、ドラフト指名されることなく東京ガスに就職する。「2年後に指名されなかったらすっぱりと野球を辞めて、社業に専念しよう」と退路を断っての入社だったという。


そして、1998年のドラフトで千葉ロッテマリーンズから1位指名を受けプロ入りを果たし、2007年までプレー。その間、ボビー・バレンタイン監督の下、2005年に日本一も経験し、自身も球界を代表するセットアッパーとして、2004年アテネ五輪にも出場した。

2008年にはFA権を行使し、MLBのクリーブランド・インディアンス(現ガーディアンズ)に移籍。1年目から57試合に登板し4勝5敗6セーブの成績を残したが、2年目には不振のためマイナーに降格、そして7月には解雇され、実質1年半のプレーにとどまった。

その後は、巨人(2010)を経て、オリックス (2011)で現役引退。その後は指導者としてオリックス、ロッテ、日本女子プロ野球リーグで投手コーチを歴任した。2021年からは社会人野球のエイジェック野球部投手総合コーチに就き、同チーム初の都市対抗野球出場に導いたが、この9月に退任が発表された。

この2人が同時期に東京ガスに在籍していたのは1997年から1998年の2年間だが、同じ社屋の同じフロアで働いていたようだ。本稿のテーマである「同級生」とは異なるが、後にそれぞれチームの顔となるスター選手の“下積み時代”の話だ。

当時、同フロアで働いていた同僚の女子社員によると「小林くんは真面目に仕事していたけど、アマラオは女の子にちょっかい出して、仕事のジャマばかりしていた」と笑いながら振り返る。アマラオ氏が“キング”となるはるか前の出来事だが、当時はブラジル代表を目指すバリバリのプロサッカー選手だ。まさか日本企業でオフィスワークに従事するとは思ってもみなかっただろう。


アマラオ氏は引退後、東日本大震災の影響で一度はブラジルに帰国したものの、日本への思いが強く2014年に再来日。以降、J2ザスパクサツ群馬(現ザスパ群馬)や、関東2部リーグのtonan前橋のコーチを歴任。2022年には、12年間を過ごしたFC東京のアンバサダーに就任し、Jクラブのアンバサダーに外国人が就く初の例となった。

また、Jリーグ非公式試合ながら(公式戦500試合出場を満たしていないため)2008年5月に開催された味の素スタジアムでの引退試合に1万5000人以上のサポーターを集めたことからも、彼がFC東京のレジェンドであることを証明している。

日本での生活も長く“サラリーマン経験”も役立ったことで日本語も流暢に使いこなす。加えて自身が日本生活に馴染めなかった頃にラモス瑠偉氏に世話になったことを受け、現在では来日したブラジル人選手のサポートも買って出るなど、アマラオ氏は日本サッカー界とブラジル人選手の架け橋となっている。
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