しかし、欧州クラブがオファーしてきたのだから、その実力には疑いはない。
ここでは、欧州では結果を残せなかったものの、復帰したJの舞台でその経験を所属クラブにフィードバックした選手やキャリアをフイにしてしまった5選手を挙げつつ、失敗に終わった要因についても指摘していきたい。
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北川航也(清水エスパルス)
移籍元:清水エスパルス(2015-2019、2022-)
移籍先:ラピード・ウィーン(2019-2022)
在籍2年半で7ゴール3アシスト「もう日本人選手はコリゴリ」?2018シーズンにJ1リーグで13得点を記録し、日本代表にも初招集されたFW北川航也。2019シーズンも第20節終了時点で6得点と順調に数字を伸ばしていた。
そこに、目を付けたのは、オーストリア・ブンデスリーガ最多優勝回数を誇る強豪のラピード・ウィーン。4年契約の完全移籍でのオファーで、その移籍金は150万ユーロ(約1億9.700万円)。当時25歳で、代表キャップがわずか8試合の選手とすれば破格の金額だった。
しかし、加入初年度は故障もあり、リーグ戦19試合で2得点。2年目は18試合で3得点、3年目は12試合で無得点に終わっていた。公式戦(リーグ戦に加え、Bチームでの試合やヨーロッパリーグ含む)通算71試合に出場し7得点に終わった。そして、クラブは2023年までの契約を残していたものの、北川放出を決める。
古巣の清水が買い戻す形で復帰したが、当時のラピードのスポーツディレクター、ゾラン・バリシッチ氏によれば、その際の移籍金は「数十万ユーロ」と語っており、ラピード側は“大損”した格好だ。以来、同クラブは日本人選手を獲得していない。
北川本人はその後大きく成長し、清水がJ2降格してもチームリーダーとしてイレブンを引っ張り、今2024シーズンには主将として、悲願のJ1昇格に導いた。

中島翔哉(浦和レッズ)
移籍元:FC東京(2014-2018)
移籍先:ポルティモネンセ(2017-2018、2021-2022)、アル・ドゥハイル(2019)、ポルト(2019-2022)、アル・アイン(2021)、アンタルヤスポル(2022-2023)
代理人に才能を潰された元日本代表「背番号10」時には選手生命を左右する代理人の存在。しかし、FW中島翔哉ほど代理人によってキャリアのピークを無為にさせられたケースはないのではないだろうか。
中島は東京ヴェルディユース時代から注目され、2012年2月からトップチームに昇格。9月の天皇杯2回戦で初出場し、同月14日のJ2第33節アビスパ福岡戦でJリーグ初出場し得点を記録。さらにJ2第39節栃木SC戦では、18歳59日でのJリーグ史上最年少ハットトリック記録を塗り替えた。
しかし、東京Vではレギュラーポジションを掴みことができずに、ライバルのFC東京に完全移籍。カターレ富山へレンタル移籍を経て、FC東京に復帰し、J1リーグで51試合6得点を記録した。また、年代別代表に招集され続け、将来を嘱望されるアタッカーだった。
2017年8月、ポルトガルのプリメイラ・リーガ(1部)ポルティモネンセへレンタル移籍する中島。これを手引きしたのが、中島の代理人でありながら、ポルティモネンセの大株主でもあるテオドロ・フォンセカ氏だ。
中島は、2017/18シーズン10得点12アシストという好成績を収めて、ポルトガルリーグの年間ベストイレブンに選出され、翌2018/19シーズン途中までチームの中心選手として活躍。日本代表にも選出され、新たに就任した森保一監督はMF香川真司(現セレッソ大阪)の後を継ぐ背番号「10」を彼に託した。
しかしここから彼のサッカー人生は転落の一途を辿っていく。2019年2月、日本人史上最高額となる移籍金3,500万ユーロ(約43億7,500万円)でカタール・スターズリーグのアル・ドゥハイルへ完全移籍する。この移籍は賛否両論を呼び、中島はこの移籍はあくまでも自分自身の決断であり、代理人の口車に乗せられたわけではないことを、動画配信でファンに説明する事態となった。
そのわずか5か月後、今度はUEFAチャンピオンズリーグ(CL)優勝経験(1986/87、2003/04)もあるポルトガルの名門ポルトへの完全移籍を果たす。背番号「10」を背負い大出世したかに見えたが、このシーズン、28試合出場で1得点3アシストに終わり、代表へも招集されなくなっていった。
さらにはコロナ禍の2020年3月、リーグが中断を余儀なくされる中、ポルトはリーグ戦再開に備えて練習を始めたものの、5月中旬以降、中島は練習参加を拒否。代理人は「新型コロナ感染を恐れ、日本人家政婦が帰国してしまった。中島の夫人は幼い娘の世話で忙しく、しかも喘息の持病があるため、中島が夫人と娘の面倒を見なければならなくなった」と説明した。
しかし、これがセルジオ・コンセイソン監督の逆鱗に触れ、フロントも「中島は不良債権。クラブにとって頭痛の種だ」と言い放った。結局中島はUAEのアル・アインや、ポルティモネンセにレンタル移籍することになるが、今度はケガが彼を襲い、ほとんど試合に絡めないままポルトへと戻る。しかし、かつてのようなキレのあるプレーは見る影もなく、チームに居場所はなかった。
苦難は続く。代理人のフォンセカ氏が、違法な仲介をしたとしてポルトガル・サッカー連盟から訴えられたのだ。この中には中島の移籍にも不正な点があるとされ、行き先を失った中島は双方合意の上でポルトとの契約を解除し、新たにトルコ1部スュペル・リグのアンタルヤスポルと2年契約を結んだ。
新天地での再起を期した中島だったが、ヌリ・シャヒン監督とも打ち解けることなく、入団2戦目でホームデビュー戦となったアダナ・デミルスポル戦で後半14分から途中出場すると、わずか15秒後にサッカー人生初のレッドカードを受けるという洗礼を浴びる。
さらにクラブの財政難による給与未払いにも遭い、2023年7月、未払い分の年俸を放棄した上で、アンタルヤスポルとの契約を解除し退団。同時に浦和レッズへ完全移籍した。実に6年ぶりのJ復帰を果たし、背番号「10」を与えられたものの、往年のキレは消え失せ、22試合出場1得点という結果に終わる。その時、中島の年齢はすでに30歳になっていた。
まだ現役のため、復活の道がないわけではないだろう。しかし中島が歩んできた足跡を振り返ると、サッカーの実力以外の部分で道を踏み外し、損ばかりしてきた印象だ。加えて、代理人の“オモチャ”にされ、クラブからクラブへ転がされ続けてきた不運も目立った。
マトモな代理人と出会っていれば、どんな選手に育っていただろうか…。

食野亮太郎(ガンバ大阪)
移籍元:ガンバ大阪(2017-2019)
移籍先:マンチェスター・シティ(2019)、ハーツ(2019-2020)、リオ・アヴェ(2020-2021)、エストリル(2021-2022)
シティの「青田買い戦略」の犠牲に…ジュニアユース(中学生年代)からガンバ大阪に所属し、ユース時代には高2で既にトップチームに合流し、高3にしてJ3リーグに参戦したガンバ大阪U-23の一員としてJリーグデビューしたFW食野亮太郎。その活躍ぶりが認められ、トップチームの試合にもベンチ入りを果たすと、ルヴァン杯で得点を記録するなど、次世代のG大阪を象徴する存在として頭角を現す。
しかし、その若き才能に目を付けたのは、2008年にUAEの投資会社アブダビ・ユナイテッド・グループ・フォー・ディベロップメント・アンド・インベストメントが2億5,000万ユーロ(約321億7,400万円)で買収し、マンチェスターの1地方クラブから同都市のメガクラブ、マンチェスター・ユナイテッドを凌ぐビッグクラブとなっていくマンチェスター・シティだった。
世界有数のスターを買い漁り、「モノになれば儲けもの」とばかりに芽が出そうな10代の若手を世界中から引き抜き、下部組織あるいは提携するクラブへのレンタル移籍で経験を積ませるその手法には、他クラブも眉をひそめ、FIFAからは「18歳未満の国外選手の獲得禁止」の規則に抵触するとして調査の対象にもなった。
これには、日本代表DF板倉滉も当てはまるが、板倉はレンタル先のフローニンゲン(2019/21)、シャルケ(2021/22)での活躍によって、現在の所属先であるボルシア・メンヒェングラートバッハ移籍の際にシティに500万ユーロ(約8億円)の移籍金を残した、稀ともいえる大成功例だ。
一方の食野は、いずれもポルトガル1部のリオ・アヴェ(2020/21)、エストリル・プライア(2021/22)にレンタルされるが、通算29試合4得点と期待外れに終わる。当然ながら、シティの戦力はおろか、“売り物”にすらなれずに帰国を余儀なくされる。
当初は東京五輪でメダル獲得を目指すU-24日本代表に加わっていたが、ポルトガルで目立った活躍が出来ず徐々に序列を落としていき、五輪出場メンバーから落選するという挫折を味わうことになる。
2022シーズン途中にG大阪に完全移籍で3年ぶりの古巣復帰した食野。しかし「浪速のメッシ」とも呼ばれた鋭いドリブルはすっかり影を潜め、今2024シーズンはJ1リーグ戦11試合出場で無得点に終わっている。
まだ26歳の食野だが、一部サポーターからは「早熟」や「もう終わった選手」という評価も下され始めている。早すぎた欧州移籍がキャリアを狂わせてしまった格好だが、同じく若くして欧州に移籍(バイエルン・ミュンヘン、ホッフェンハイム、アウクスブルク、デュッセルドルフ)し、挫折も味わった先輩、FW宇佐美貴史のように復活するのか、期待して待ちたい。

山口蛍(V・ファーレン長崎)
移籍元:セレッソ大阪(2009-2015)
移籍先:ハノーファー(2016)
たった半年で帰国を余儀なくされた屈辱今2024シーズン、ヴィッセル神戸の主力としてJ1リーグ連覇に貢献したにも関わらず、J2のV・ファーレン長崎への移籍を決断するという驚きのニュースを提供したMF山口蛍。
セレッソ大阪の下部組織出身で、2009シーズンにトップチームに昇格すると、徐々に出場時間を増やし、2012シーズンにはレギュラーポジションを獲得。2013年には日本代表に初選出される。2014シーズン、チームはJ1で17位に終わり、J2に降格。その中でもC大阪に残留したことで、サポーターからは“ワンクラブマン”になるものと期待されていた。
翌2015シーズンにJ1昇格を逃し、2シーズン連続でJ2を戦っていた2016シーズン途中、既にMF清武弘嗣(現セビージャ)やDF酒井宏樹(現オークランド)が所属していたブンデスリーガのハノーファーから完全移籍のオファ―が届き、移籍金100万ユーロ(約1億2,000万円)で欧州移籍を果たす。
しかし待っていたのは、そのポリバレントさによる“器用貧乏”的な起用法だった。ボランチが本職の山口に対し、トーマス・シャーフ監督が与えたポジションは右サイドハーフ。不慣れなタスクを強いられた上、前半33分で交代という屈辱的な扱いを受けることもあった。
代表戦でのケガの影響もあり、リーグ戦6試合出場に終わり、チームも最下位で2部に降格。家庭の事情もありC大阪への復帰を決意するが、買い戻しに使った移籍金は150万ユーロ(約1億8,000万円)だ。C大阪は主力選手のキャリアに傷を付けられた上に、わずか半年間の“短期留学”で6,000万円もの出費を余儀なくされ、得をしたのはハノーファーのフロントと代理人だけという結果に終わった。
その後、2019シーズンにヴィッセル神戸に電撃移籍した山口。

家長昭博(川崎フロンターレ)
移籍元:ガンバ大阪(2004-2010)
移籍先:マジョルカ(2011-2013)
監督交代で一気に窓際に追いやられた不運ガンバ大阪ジュニアユース時代、本田圭佑としのぎを削り合い、本田を押しのけてユースに昇格(ユース昇格を逃した本田は石川県星稜高校に進学)、高校3年時の2004シーズンにプロ契約を結んだクラブ希望の星だったMF家長昭博。
当時のG大阪は西野朗監督の下で着々と強化が進み、翌2005シーズンにJ1初優勝を果たす。攻撃陣には日本代表MF遠藤保仁(2024年引退)をはじめ、MF二川孝広(2022年引退)、MFフェルナンジーニョ(現アトレチコ・パラナエンセ)、FW大黒将志(2020年引退)、FWマグロン(2004年引退)といった面々が揃い、家長は出場機会を求めて、大分トリニータ(2008-09)セレッソ大阪(2010)へのレンタル移籍を繰り返すが、C大阪ではJ1復帰初年度にも関わらず3位の好成績を残す原動力となった。
そして2010年オフに、スペイン、ラ・リーガのマジョルカへ完全移籍を果たす。2015年までの4年半契約で、推定移籍金は移籍金400万ユーロ(約4億5,000万円)。しかし入団からしばらくは、EU外国籍選手枠の問題で選手登録されなかった。
しかし、元デンマーク代表MFのレジェンドでもあるミカエル・ラウドルップ監督は家長の実力を信じ、冬の移籍期間ギリギリの1月31日にブラジル人DFラティーニョを放出し、家長を選手登録。2月5日のアウェイ・オサスナ戦(1-1)で後半23分から途中出場、欧州デビューを果たし、2007年以来遠ざかっていた日本代表にも選出された。
ところが、翌2011/12シーズンに就任したホアキン・カパロス監督からは構想外扱いされ、出場期間が激減。前半戦の出場は4試合に留まる。家長は韓国Kリーグの蔚山現代や古巣のG大阪へのレンタル移籍を経て、2013-14シーズン約1年半ぶりにマジョルカに復帰し、リーグ戦7試合に出場した後に契約満了。大宮アルディージャに完全移籍し、J復帰を果たした。マジョルカでのリーグ戦成績は25試合出場2得点に終わった。
2017シーズンには川崎フロンターレに移籍してチームの黄金時代を築き、リーグ戦連覇した2018シーズンには、31歳にしてMVPにも輝いてキャリアの最高を迎える。38歳となった現在でも、不動の右ウイングとして欠かせない存在となっている。改めて振り返ると、欧州移籍が成功するかどうかは、実力に加え、タイミングと相性が重要なファクターであることを示している。
マジョルカには家長以外にもFW大久保嘉人(2021年引退)やFW久保建英(現レアル・ソシエダ)が過去に所属し、現在、日本代表FW浅野拓磨が活躍。日本人選手との繋がりが強いクラブだ。日本語版の公式Xアカウントを持ち、胸スポンサーも衝撃吸収素材「αGEL(アルファゲル)」の製造販売を手掛ける日本企業の株式会社タイカである。
一時期は欧州移籍を目指す日本人選手の一番人気だったラ・リーガだったが、今ではプレミアリーグに押されている印象がある。しかし、マジョルカのようなクラブがある限り、ラ・リーガから日本人選手がいなくなる心配は少ないだろう。