1968年創設のソニー仙台FCが、昨2024シーズンをもってJFL(日本フットボールリーグ)を退会した。1999年からJFLに参戦している56年もの歴史を持つ老舗クラブ解散の報は、驚きを持って受け止められた。
Jリーグ入りを目指していたわけではなかったが、2015シーズンにはJFL優勝を果たし、天皇杯の常連でもあった。

現在のJFLには、Honda FC、FCマルヤス岡崎、ミネベアミツミFCといった純粋なアマチュアクラブが混在しながらも、将来的なJリーグ入りを目指すクラブがほとんどだ。今2025シーズン、J3から降格してきたいわてグルージャ盛岡とY.S.C.C.横浜も参戦していることで、実質的にJFLは「J4リーグ」として機能している。

しかし、新クラブが創設されたとして、都道府県リーグ3部からスタートしたと仮定すると、都道府県3部、2部、1部、地域リーグ2部、1部、JFLと、毎年昇格したとしてもJ3に届くまで最低6年かかる。その間に資金がショートしてしまい、クラブ解散という残酷な結末を迎えるケースも少なくない。

ここでは、過去にはJFLにまで到達しながらも、資金難などが原因で志半ばに解散を強いられた数多くのクラブから5選を紹介する。クラブ存続に足りなかったものを検証し、将来的にJリーグ入りを目指すクラブの道標を示していきたい。

Jリーグ入りを目指しながらも志半ばで力尽き解散したクラブ5選

FC神楽しまね(2023年解散)

ホームタウン:島根県松江市

FC神楽しまねの前身「松江RMクラブ」の創設年は1968年。隣県にあるJ3ガイナーレ鳥取の前身「鳥取教員団サッカー部」が1983年創設であることを考えれば、その15年も前であり、先にJリーグ入りを決めても良さそうなものだった。

しかし鳥取が1989年に「SC鳥取」に改称し2001年にJFL昇格を果たした一方、同クラブのJFL入りは2019年。SC鳥取が中国リーグを3年(1998-2000)で駆け抜けたのとは対照的に、8年(2011-2018)もの年月を要した。

JFL3年目の2022年に「松江シティFC(2011-2021)」から「FC神楽しまね」と改称したが、その夏から選手・スタッフへの給与遅配が、松江市に本社を置く地元紙の山陰中央新報と、同じく山陰エリアをネットする日本海テレビに報じられた。

その理由として最も大きかったのが、コロナ禍による試合中止や無観客試合だった。
2021年には負債総額が約1億円にまで膨れ上がり、当時の実信憲明監督や主将だった垣根拓也ら20人以上の主力選手が退団。

元コーチが運営会社を相手取り、未払い分給与の支払いを求める訴訟を起こしたが、被告であるクラブ側は出廷することも書面で反論することもなく結審し、未払い分の支払いを命じる判決を出された。加えて、JFLの参加費の支払いも不可能であることも明かされた。

問題視したJFLは、FC神楽しまねの退会を決定。そもそもその時点でトップチームの選手数が11人を切っていたことで、下部組織を別会社に移管した上で、2023年3月、松江地裁に破産手続きを申し立て、クラブの解散が決まった。

同年8月、松江労働基準監督署はスタッフ4人に対する最低賃金法違反(賃金不払い)の疑いで、運営会社と同社社長を書類送検(不起訴処分)するという後味の悪さだけが残された。

Jリーグ入りを目指しながらも志半ばで力尽き解散したクラブ5選

アルテ高崎(2011年解散)

ホームタウン:群馬県高崎市

1996年に結成された「マッキーFC」を母体に、「群馬FCフォルトナ」「群馬FCホリコシ」「FCホリコシ」「アルテ高崎」と改称を繰り返しながらも、群馬県リーグ、関東社会人リーグと階段を上り、同県のザスパ草津(現J3ザスパ群馬)と時を同じくして2004年にJFLへ昇格したクラブ。

運営会社が日本サッカー界初で唯一の学校法人(堀越学園)であることでも注目された。同年の天皇杯では4回戦で柏レイソルを1-0で破るジャイアントキリングを達成した。

しかし、JFLをたった1年で卒業し、J2昇格を果たしたザスパ草津とは対照的に、アルテ高崎は苦戦を続ける。元FC東京FWアマラオを加入させるなどの補強も行ったが結果には結びつかず、練習環境の劣悪さや慢性的な資金難も明らかになり、Jリーグ加盟も認められなかった。

2011年末、今度は堀越学園の経営悪化による資金難に見舞われ、クラブ存続が困難に。JFLへチームの移管を要望したが移管先企業との交渉は不調に終わり解散となった。
2013年にはオーナーだった堀越学園も破産したが、かろうじて下部組織は2012年創設の高崎エヴォリスタFCに承継された。

Jリーグ入りを目指しながらも志半ばで力尽き解散したクラブ5選

レイジェンド滋賀(2025年VELAGO生駒にチーム移管)

ホームタウン:滋賀県守山市

現在JFLに属するレイラック滋賀(当時「佐川急便京都サッカー部」)と同じ、2005年に創設された「滋賀FC」が母体のレイジェンド滋賀。当時は滋賀県サッカー協会の後押しもあり、県民からの期待も大きかった。特例措置として、初年度から滋賀県社会人サッカー1部からスタートを切った事実からも伺える。

とんとん拍子で2009年には関西リーグ1部に昇格するが、1年で2部に降格。その後、東レ子会社の東洋実業がスポンサーとなり、FC TOJITSU SHIGAと合併。「TOJITSU滋賀FC」となり一旦Jリーグ入りを諦め企業クラブとして活動するが、2011年、公募によってクラブ名を「レイジェンド滋賀FC」に改称し、再びJリーグ入りを目指した。

しかし時を同じくして東洋実業がスポンサーから撤退してしまう。クラブはMIOびわこ滋賀(後のレイラック滋賀)との合併を模索するが交渉は不調に終わり、独自にJリーグ加盟を目指す方針を示したが、2023シーズンの関西リーグ2位を最高成績とし、翌2024シーズンを最後に奈良県生駒市をホームタウンとする「VELAGO生駒」にトップチームを移管した。現在は下部組織のみで、その名が残されている。

Jリーグ入りを目指しながらも志半ばで力尽き解散したクラブ5選

沖縄かりゆしFC(2010年解散)

ホームタウン:沖縄県那覇市

1999年、「かりゆしホテルズFC」として発足した沖縄かりゆしFC。元日本代表のレジェンド、ラモス瑠偉氏を選手兼テクニカルディレクター(TD)として招聘し順調にステップアップを続け、沖縄県社会人リーグに所属するサテライト組織「かりゆしサウシーシャ」やユースチームも備えた。天皇杯の常連でもあった。

2002年には九州リーグで優勝したが、全国地域サッカーチャンピオンズリーグ(地域CL)で敗退し、あと一歩のところでJFL入りは逃した。
同年、ラモス氏を解任すると、所属選手22人中21人が退団してしまう。その選手たちが中心となって結成されたクラブが、現在、J3を戦うFC琉球だ。

クラブはその後、元日本代表DF加藤久氏がGM兼監督に就任。多数の新加入選手を迎え再スタートを切ると、九州リーグを連覇し、天皇杯1回戦ではJ2サガン鳥栖を破った。

しかしその最期はあまりにも呆気なかった。2004年、スポンサーのかりゆしホテルグループが撤退を表明すると、加藤監督以下、所属選手27人全員が退団。下部組織の選手113人全員も退団し、「ヴィクサーレ沖縄」を設立した。

スポンサーを失った沖縄かりゆしFCは、それでも奮闘を続け、2008、2009シーズンと九州リーグを連覇する。一方で、運営費のメドは立たず、給与遅配も起き、受け入れ先企業も見付からず、2010シーズンを前にクラブ解散が決定した。スポンサーを単一企業に頼るクラブの危うさを示す典型例となってしまった。

Jリーグ入りを目指しながらも志半ばで力尽き解散したクラブ5選

福島FC(1997年解散)

ホームタウン:福島県郡山市

1951年創部の「福島教員団」を母体とし、1982年に国体教員の部廃止に伴い「福島FC」に名称を変更。1993年にJリーグが創設されブームが巻き起こると、「福島県にもJクラブを!」という機運が高まり、本格的な強化策が取られるようになった。


1994シーズン、東北リーグで2位に入り、JFL入りを果たすと、1996年には元日本代表FWでU-20日本代表(1989-1991)やジェフユナイテッド市原(1992-1993)を指揮した永井良和氏を監督に招聘。元Jリーガーを積極的に獲得し、1996年の天皇杯3回戦では、福島県代表初のJクラブ相手からの勝利(対ジュビロ磐田/2-1)を手にした。

翌1997年、J2加盟を申請したが、その夏から選手・スタッフへの給与遅配が始まる。同クラブは一個人が財政支援を行っており、その資産及び親族から20億円の資金を借り入れてクラブ運営をしていたことが判明。さらに弁済の目処がつかずに破産させてしまった。

JFA(日本サッカー協会)がこの件を問題視したことを受け、クラブ代表がJFL事務局へ退会届けを提出、JFL評議委員会でも承認されてしまった。

これに反発したのが所属選手たち。白紙撤回を求める署名をスタートさせ、福島県サッカー協会にも新会社による運営を提案したが、選手たちの努力も空しく、JFA理事会で福島FCのJFL撤退とクラブ解散が正式決定する。

同年の天皇杯で3回戦にまで進出した福島FCは、12月14日、日本平スタジアムでの清水エスパルス戦で敗れ、その歴史に幕を閉じた。ちなみに尚志高校サッカー部監督として同校を全国区にまで押し上げた仲村浩二氏は同クラブOBで、引退直後に同高で指揮を執ることになる。福島FCの存在は確実に福島県のサッカー界に財産を残していたのだ。

この一件によって“サッカー空白県”となった福島県にJリーグの火が灯るのは、2002年に創設された福島ユナイテッドがJ3に昇格する2014年のこと。
約17年も待たされることとなった。
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