【お笑い界 偉人・奇人・変人伝】#238
朝丘雪路さん
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当時、50代の後半になっていらしたかと思いますが、物腰柔らかく、ちょっとはにかむようでいながら目を新人のようにキラキラさせ、丁寧に挨拶をされる姿はこれぞ「お嬢さま」でした。
「わたくし専属の教育係がいつも一緒におりましてね、学校へ行くのも専属車夫の引く専用の人力車で行き帰りしておりましたから、放課後に同級生と遊ぶようなことはございませんでしたね」と子供時代の話を始められました。
「ようそんな箱入り娘が宝塚へ行けましたね、お父さん(日本画家の伊東深水)反対しはったでしょう?」
「それがね、宝塚を創られた阪急グループのオーナーさんと父の親友の方に“こんな浮世離れした生活を続けてたら、娘さんがだめになるぞ!”って責任を持って宝塚の寮で預かるから安心してくれって、説得されて渋々OKしたみたいです。それで初めて父の元を離れることになったのね」とまさに浮世離れしたドラマか映画のワンシーンのような話を淡々とされていました。宝塚時代の話になると目を輝かせながら「見るものもやることも初めてのことだったでしょう? 楽しくって、生まれて初めて、お友達とだけで出かけて、お買い物したり、お食事したりして、自分でお金を払って、電車の切符の買い方を教わって、でもひとりでは怖くてなにもできなかったわね。みなさんが当たり前にされてきたことを17歳でようやく経験したんですからもううれしくって」と両手を握りしめて体を震わせておられたのが印象的でした。
津川雅彦さんとの結婚生活については「そばにいてくれるだけでいいからって、大切にしていただいて幸せです。ほんとにありがたいですわ。私が家事がなにもできないっていうことも承知でもらってくださって、それでもいいって言ってくださる津川さんには感謝しかありません」と満面の笑み。深窓の令嬢パワーがスタジオの空気を変えてしまうことに驚きました。
対談中、朝丘さんが常に口にされたのは「感謝」。出会った方みなさんに感謝。
(本多正識/漫才作家)