【増田俊也 口述クロニクル】
写真家・加納典明氏(第5回)
小説、ノンフィクションの両ジャンルで活躍する作家・増田俊也氏による新連載がスタートしました。各界レジェンドの一代記をディープなロングインタビューによって届ける口述クロニクル。
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増田「加納さんは作家の畑正憲*さん、いわゆるムツゴロウさんの動物王国に何年か一緒に住んでいたんですよね」
※畑正憲(はた・まさのり):作家。ナチュラリスト。愛称ムツゴロウ。1935年福岡県に生まれ、幼少期を満州で過ごす。東京大学理学部生物学科大学院修士課程中退。学研映画で科学映画の制作に携わった後、エッセイ集『われら動物みな兄弟 愛と生命の科学』でデビュー。1970年代に北海道に移住して無人島に住み、その後「動物王国」を設立するなどした。著書多数。2023年、87歳没。
加納「よくご存じですね(少し驚いた様子)」
増田「若いとき畑さんに傾倒してたんです。小学生のころから」
加納「とすると、フジテレビのドキュメンタリー、例の『ムツゴロウとゆかいな仲間たち』*シリーズが始まる前?」
※ムツゴロウとゆかいな仲間たち:フジテレビ系列局で1980年から2001年まで特別番組として逐次放送されたドキュメンタリー。
増田「ええ」
加納「それはかなり早いですね。彼が本格的に出始めたのは昭和40年代、毎日新聞が推して無人島の嶮暮帰島に1年間移住してブレークして。自給自足を目指した生活でね」
増田「あれが単行本『ムツゴロウの無人島記』*として出たのが1972年で、僕は小学校の1年生ですが、3年生のときに父の本棚で見つけて、繰り返し読んではまったんです。そこから父のものを漁っては読み、中学からはリアルタイムで。僕が彼を敬したのは作家としての彼、書き手としての彼で、だから文体が似てるって今でもときどき言われるんです」
※ムツゴロウの無人島記:1971年に北海道の無人島、嶮暮帰島に妻と娘とともに移住、そこでヒグマのどんべえや秋田犬のグルなどと暮らした1年間の記録を書籍化したもの。ベストセラーとなった。
加納「強い傾倒ですね。もしかして僕が王国に住んでいたから今回こうしてインタビューを依頼してくれたんですか? 僕から見ていると、増田さんはそれ以上に強く僕にこだわっているように見えるんですが」
増田「じつをいうと畑さんの評伝を書く準備をずっと進めていたんです。それが『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』の次の僕のノンフィクションの目玉だったんです。だから畑さんが生きているときから加納さんにお会いして詳しく話をお聞きする予定でした」
加納「へえ。そうなんだ。
増田 「木村政彦を連載している間も手紙や電話をやりとりしていました」
加納「それ、畑さんの生前だよね。もちろん」
増田「もちろんです。マネジャーさんとも話していましたし、畑さん本人とも電話で話してました」
加納「マネジャーは石川?」
増田「いや。本多さんです。それで東京で会っていよいよ書き始めるぞというときにコロナ禍が始まってしまって。畑さんは心臓を悪くしていたので、感染して呼吸器やられたら危ないから『コロナが終わるまで、もう東京に出られない』と。それで『僕が中標津行きます』って言ってもだめなんです。怖いんですね、ムツ牧場にコロナを持ち込まれるのが。マネジャーさんにはっきり『畑が怖がるんで』と言われて」
加納「コロナがなければ……ですね」
増田「コロナが明けてから『よし、やるぞ』って、資料のコピーを一緒にしてどっさり送ったんです。ところがその5日後に亡くなってしまって。名古屋から北海道は手紙が2日で着くから亡くなる3日前にムツさんは手紙を開けているはずです」
加納「そんなニアミスだったんだ」
増田「おそらく畑さんの机には僕の手紙が開かれたままだったと思います」
加納「それくらい追っかけてたから僕とムツさんの関係を詳しく知っていたと」
増田「小学生の頃から知ってました。
加納「そいつは嬉しいね」
(第6回につづく=火・木曜掲載)
▽かのう・てんめい:1942年、愛知県生まれ。19歳で上京し、広告写真家・杵島隆氏に師事する。その後、フリーの写真家として広告を中心に活躍。69年に開催した個展「FUCK」で一躍脚光を浴びる。グラビア撮影では過激ヌードの巨匠として名を馳せる一方、タレント活動やムツゴロウ王国への移住など写真家の枠を超えたパフォーマンスでも話題に。日宣美賞、APA賞、朝日広告賞、毎日広告賞など受賞多数。
▽ますだ・としなり:1965年、愛知県生まれ。小説家。北海道大学中退。中日新聞社時代の2006年「シャトゥーン ヒグマの森」でこのミステリーがすごい!大賞優秀賞を受賞してデビュー。12年「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」で大宅壮一ノンフィクション賞と新潮ドキュメント賞をダブル受賞。