2024年12月6日、"ミポリン"の愛称で親しまれた中山美穂さん(享年54)が急死して、間もなく7カ月が経つ。1985年、大ヒットドラマ『毎度おさわがせします』(TBS系)でブレークし、スターダムを駆け上がる美穂さんを中学1年生の時ににスカウトし、トップスターに育て上げた芸能プロダクション「ビッグアップル」の創業社長である山中則男氏が、当時の衝撃をこう振り返る。


■訃報を聞いた日は「ベッドで横になるしかなかった」


「当日の午前11時過ぎに私のガラケーが高い音で鳴りましてね。出たらビッグアップルの鈴木伸佳現社長が『美穂が亡くなりました』って言うんです。病気の話なんて全く聞いていなかったし、美穂は翌日から40周年でコンサートもあってドラマの話も決まっていた。信じられませんでした」


 それから山中氏の目まぐるしい日々が始まった。


「とにかく誰にも言わないでほしいと頼まれましてね。美穂と私が長きにわたってお世話になってきたバーニングプロダクションの周防郁雄会長からも連絡があって、情報解禁までは関係者にマスコミにも黙っていて欲しいと。自分が何を話したか分からないほど混乱していて、電話を枕元に置くのも嫌で離れた所に置きました。心臓もバクバクして、このまま起きていたら倒れてしまうんじゃないかと思って、布団をかぶって寝るしかなかった。親兄弟が来ても、話せなかったでしょうね」


 今年4月にはお別れの会が開かれ、美穂さんと親交のあった人たちが別れを惜しんだ。その中には山中氏の姿もあったが、今年6月20日に初の著書「中山美穂『C』からの物語」(青志社)の出版に踏み切った。本には育ての親の山中氏しか知らない美穂さんの複雑な生い立ちから、原宿駅竹下通りで当時中学1年生だった美穂さんをスカウトした時のこと、大スターに駆け上がるまでの過程が詳細に書かれている。


 山中氏はどんな思いでこの本を書いたのだろうか。


「最近の美穂のことを知っている方はたくさんいますが、私と出会った40年前の頃の話は知らない方がほとんどだと思うんですね。私じゃなければ知らない話もたくさんありますし、出版社から『本にしたらどうですか』という話をいただき、歴史的な意味もあると思って書くことにしました。これまでのいろいろなことが頭の中をかけ巡って、正直、辛い気持ちもありましたが、『中山美穂というタレントを作って良かった』と改めて思いました」



「目の輝き」がスカウトの絶対条件だった

 著書には美穂さんとの出会いについて、《身長はおよそ160センチあるかないかで細い身体つきだが、小顔で目鼻立ちがはっきりとして特に目の印象が強く、人を惹きつける瞳に、この少女の1年後、2年後、3年後の顔を想像した。スター性を持っている。すでにちょっとした仕草が大人びていてこの少女が持つ芯の強さを感じた。年齢を聞くと「12歳です」と答えた》《笑うと八重歯が見えて、チャームポイントになっている。何よりも表情に人を惹きつける力を持っている。あの大女優夏目雅子さんの少女時代を思わせる顔立ちだった》と出てくる。


「久しぶりに美少女を見たという印象でしたね。目がとにかく良かった。プロの私たちから見ると、目の輝きはスカウトの際の絶対条件なんです。そして私は夏目雅子さんみたいな雰囲気を持っている子だなと感じました。

美穂自身、中森明菜さんと同じくらい夏目雅子さんのファンだったわけですが、まさか美穂が夏目さんと同じように若くして亡くなるとは思いもしませんでした..」


■「ママに家を建ててあげたい」と涙の告白


 山中氏が美穂さんを語る上で欠かせないのが、美穂さんの生い立ちだという。美穂さんの母親は、18歳で美穂さんを私生児として産み、苦労しながらも大切に育てたそうだ。その母親を交えた"三者面談"で、こんなやりとりがあったという。


《「私は、お母さんを楽にさせてあげたい。いままでお母さんは苦労して、私と妹を育ててくれました。お金がないのに、私の我儘を何でも聞いてくれた。だから頑張って楽をさせてあげたいのです」と涙ながら僕に伝えた。隣に座っている母も涙ぐみながら、「美穂が選んだ道です。美穂、やりたいんなら、やりなさいと言いました。どうかよろしくお願いします」そう話して深々と頭を下げた》


「そうなんです。お母さんを呼んで3人で話していた時に、美穂が『ママがすごく苦労してきた。家を建ててあげたい』と泣いたんですね。

その時、なんとかこの子の夢をかなえてあげたいという思いが生まれました。それで自分が勤めていた事務所を退社して、新たな事務所を作ることになったんです」



中森明菜、斉藤由貴、松本伊代みたいな“狸顔”がモテた時代に…

 しかし、それからは苦労の連続。東京都渋谷区の参宮橋に事務所兼自宅を構え、家賃は3万5000円。中学生だった美穂さんは学校が終わると小金井から電車でやってきて、オーディションを受けまくるもいつもあと一歩のところで落選してしまう。その理由について、山中氏は著書でこう振り返っている。


《1982年(昭和57)から1983年(昭和58)にかけて、芸能界はアイドルとして活躍していた歌手やタレントは、いわゆる狸顔がモテた時代で、斉藤由貴、中森明菜、松本伊代、菊池桃子、石川秀美らがいて、猫顔の美穂のような顔立ちは時代が少し早すぎた》


■「次に来るのは猫顔」と信じてついにつかんだビッグチャンス


 しかし、「この次に来るのは、絶対に猫顔」と信じ、美穂さんを連れて広告代理店参りを重ねる間に、ついにビッグチャンスが訪れる。最終回で視聴率26.2%を叩き出したTBSの伝説的テレビドラマ『毎度おさわがせします』のオーディションに受かったのだ。美穂さんも山中氏も大いに喜んで、二人だけでステーキ店でささやかなお祝いをしたという。しかし、いざじっくり台本を読むと、男の子の部屋になったり、下着姿になったりと、エッチなシーンがワンサカ。当時14歳だった美穂さんに本当にこの役を演じさせていいのか…。山中氏にはそんな葛藤が生まれたという。


「ところが美穂に聞くと『チャンスだよね』と。

確かに台本は過激でしたが。私たちは2人きりの小さな事務所。失うものはなかった。そしてじっくり本人と話し合って、『やってみようよ』と。彼女は苦労もしていたので、根性もあったんでしょうね。撮影現場では泣き出したり、制作スタッフに怒鳴られたりもしましたが、そのたびに励まして、『このドラマが放送されたら話題になると思うよ』と話しました」


 一夜にしてスターとなった美穂さんは、1985年(昭和60)7月18日、デビュー曲「C」でTBS系の「ザ・ベストテン」に初登場。翌週から「C」は9週連続でランクインし、一躍レコード大賞新人賞のダークホースの一人となる。さらに1987年放送のドラマ『ママはアイドル!』は最高視聴率28.6%を記録。NHK紅白歌合戦には1988年から7回連続で出場した。


■天国に行けたら「お疲れ様」とねぎらいお礼を伝えたい


 もし天国で美穂さんと再会できたら、山中氏にはかけたい言葉があるという。


「『お疲れさま』ですね。頑張ったなって。

いつも言うんですが、美穂のおかげで私はいろんな人と出会えました。もし美穂と出会わなくて、違うタレントをやっていたら、これだけの素晴らしい人たちとは会えなかったかもしれない。美穂のおかげで私の人生が作られたんです。向こうに行ったら改めてきちんとお礼を伝えたいですね」


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