【私の人生を変えた一曲】


 売野雅勇さん(作詞家/74歳)


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 中森明菜「少女A」やチェッカーズ「涙のリクエスト」など多くのヒット曲の作詞家として知られる売野雅勇さん。ヒットメーカー筒美京平との出会いやヒット曲の貴重なエピソードを語ってくれた。


 大学を出て20代は広告代理店に勤め、萬年社、東急エージェンシーインターナショナル、第一企画、それから再び東急に移りました。


 最初の東急にいたのは10カ月くらいで、そこでは洋楽のコピーの仕事をやっていました。その時のCBS・ソニーのデザイン室長が僕のコピーをすごく気に入ってくれたことが後につながります。1978年にCBS・ソニーのEPICレーベルがソニーから独立した会社になるのですが、デザイン室長がEPICソニーに移って広告の責任者になり、東急に戻った僕がEPIC専属のコピーライターの仕事をするようになります。


 東急に戻る前は友人と2人でファッション誌の仕事もやっていて、猛烈に忙しかった。入社は出退勤自由が条件で、EPICソニーの仕事だけをやりました。


 EPICソニーはロゴの作成など立ち上げから関わりました。コピーライターは僕1人。新聞用にシャネルズのアルバムのコピーを書いたのですが、これが担当ディレクターの目に留まり、「作詞もできるんじゃないか」と勧められた。作詞家になったのはそれがきっかけです。


 同時に、阿久悠さんや井上大輔さんが設立したマッドキャップという作詞、作曲などの作家事務所にも所属したのですが、そこには中森明菜「少女A」を一緒に手がけることになる芹澤廣明さんや、惣領泰則さんといった作家がいました。


 そこで沢田研二や松原みきをプロデュースした木﨑賢治さんを紹介されました。

それで都会のメローでセンチメンタルなラブストーリーが似合う伊藤銀次さんに書くことになり、他に河合夕子とかクリスタルキング、あのねのねなどに書いていました。デビューは麻生麗二の名前で出したシャネルズの「星くずのダンス・ホール」。河合のアルバム「リトル・トウキョウ」も全曲手がけました。


■中森明菜は「歌いたくない」と泣いた


 僕にとって最大の転機は「少女A」です。彼女のデビュー曲は「スローモーション」ですが、これはヒットしなかった。僕のところに話がきたのは2ndアルバムのための一曲。


 ただ、それまでの僕はアイドルなんかやったことがなかったから、最初は「書いたことないし……」と気乗りしませんでした。ただ、マネジャーから、こういうのも書けないとこれからやっていけないと言われ、悩んだ末、カッコ悪いけど書くことにしました。


 もっとも、そうはいっても何を書いていいのか見当がつかない。そんな時、新聞の社会面で「少女A(16)」という表記を見つけ、こういうのいいねとなった。僕はエリートが嫌いで(笑)、危険なにおいがするこの言葉がとても引っかかった。「少女A」は「やり過ぎだよ」という声もあったけど、僕はこれなら書けると。


 発売時点で彼女は17歳。「少女A(17)」なわけだけど、記号っぽい方がいいということで「少女A」にタイトルが決まりました。


 作曲はチェッカーズを一緒にやることになる芹澤さんです。芹澤さんには、「アルバムに採用されてよかったですね」と言ったら、「でもさ、こういうのは録音されて初めて喜ぶものなんだよ。録音しないこともあるから」と先輩っぽい目線で言われたのを覚えています。それがシングルになり、大ヒットしちゃったわけだけど(笑)。


 明菜さんとはレコーディングの時に一度だけ会いました。彼女は「歌いたくない」と泣いていたそうです。作家と会ったら大変なことになるから、2人を会わせるつもりはなかったけど、それはさすがにまずいというので対面することになった。スタジオでの彼女は「明菜です」と言ったきり、目も合わせませんでした。その時、感受性の強い、人見知りする女の子なんだなと思いました。



作曲家・筒美京平は曲づくりの理念を教えてくれた

「少女A」がヒットしたけど、当時は作詞家が注目されることはほとんどない時代。

そんな中でも僕のことを気にかけてくれたのが山口百恵さんのプロデュースで有名な酒井政利さんです。最初に沖田浩之のアルバムを1枚頼まれました。そして酒井さんが「筒美京平先生が一緒に仕事をしたい」と言っているというので、紹介してくれた。


 最初は野口五郎の「過ぎ去れば夢は優しい」を書きました。これはヒットはしなかったけど、京平先生が僕を気に入ってくれて、次は田原俊彦。でも、これはディレクターの判断でボツに。でも、京平先生はそんなことを気にせず指名してくれて、河合奈保子の「エスカレーション」(83年)、稲垣潤一の「夏のクラクション」(同)とヒットが続きました。


 京平先生には会ったその日に言われたことがあります。僕らの仕事は自分が資本だということ。見たこと、聞いたこと、体験したことが全部音楽になる。何を見るか、着るか、食べるか。本、映画、芝居、旅行、車……。

それらすべてが血となり肉となり、いつかペン先から、メロディーや歌詞となって戻ってくると教えられた。京平先生は曲を書くのが天職だし、ヒット曲を書くのが自分の役割と思っている人でした。


 一流のレストランにもよく連れて行ってもらいました。こんなこともあった。事務所に来てというから、そこで待ち合わせしてごはんを食べに行くのかと思ったら、まず行ったのが有名なブティック。そこに連れて行かれて、「こういうのがいいよ」と。きちんとしたものを着なさいというわけです。もっともそこはトラッド系の店で、当時、トラッドがあまり好きじゃなかったので困った記憶があります(笑)。


 写真は80年代に河合奈保子のビデオ撮影で京平先生(右)とオーストラリアとニュージーランドに一緒に行った時のツーショットです。



チェッカーズは1stが「ギザギザハートの子守唄」と聞いて泣いた

 僕にとっては芹澤さんとの出会いもものすごく重要です。芹澤さんと僕は性格が全然違います。彼はギタリストでバンドマン。

見た目は超強面。ゴルフウエアを着ていたり、高級シャツを着ているような男っぽい人。僕は彼に「売野さんはおしゃれ系」と言われてました。


 チェッカーズは基本はオールディーズで、シャネルズと、あと8ビートのロック。生まれ育ちもシャネルズと似ている。


 ボーカルの藤井フミヤは国鉄の職員だし、鶴久政治は八百屋の息子。彼らはドゥワップをやっていたら久留米で人気が出ちゃって、その後、東京のコンテストでグランプリを受賞して上京してきたグループです。


 芹澤さんは先生として彼らに毎週、教えていたけど、僕は2回くらいしか顔を出したことがなかったかな。僕の印象ではフミヤくんと鶴久くんがとくにおしゃれでしたね。フミヤくんは原宿の、当時有名だったモード系の店なんかに通っていた。


 当時、僕は230SEクーペというロングボディーのメルセデスに乗っていたのですが、フミヤくんは「いい車っすね」なんて言うかわいらしい青年でした。



ギャップがあると衝撃が増す

 デビューシングルの「ギザギザハートの子守唄」(作詞・康珍化)は売れませんでした。

芹澤さんが「ギザギザハート」を歌ってみせたら、メンバーが「これ、なんすか」と言って、笑ったそうです。「君たちが歌うんだよ」と言ったら、泣いたって(笑)。


 そして、2ndシングルが「涙のリクエスト」。実は「涙のリクエスト」がデビューシングルになる予定だったけど、ちょっと弱い、それよりエッジが利いた「ギザギザ」にしようとなった。「ギザギザ」が出た後、鶴久くんに「先生、次の『涙のリクエスト』は売れるでしょうか」と聞かれました。「売れないと久留米に帰って八百屋を継がなきゃいけない」って。僕が「絶対に売れる。君たちの一番いいところが出ているよ」と言ったら、「本当すか」ってね。


 明菜さんの時もそうだけど、ギャップがあると衝撃が増すということです。2作目でヒットして本当によかったと思います。


 写真は僕の2年遅れの40周年の記念フォーラムを行った時に楽屋で撮ったもの。左から僕、フミヤくん、芹澤さん、弟の尚之くんです。


(聞き手=峯田淳)


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