【増田俊也 口述クロニクル】


 写真家・加納典明氏(第27回)


 作家・増田俊也氏による新連載スタート。各界レジェンドの生涯を聞きながら一代記を紡ぐ口述クロニクル。

第1弾は写真家の加納典明氏です。


  ◇  ◇  ◇


増田「そのお父さまからの影響が後の加納典明を創るということですね。御父様は東京藝大*を出ているとお聞きしましたが」


※東京藝術大学(とうきょうげいじゅつだいがく):日本最難関の芸術大学で「芸術界の東大」ともいわれる。しかしその入試倍率は東大以上で、専門にもよるが30倍から50倍ある。画家の東山魁夷、藤田嗣治、岡本太郎など、建築家では吉田五十八、吉村順三など、あらゆる分野で超一流の人材を輩出している。


加納「前身の学校ですね、東京美術学校」


増田「ものすごいインテリですよね」


加納「インテリであったのはたしかだと思います。左翼思想が非常に強い人でした。若いときの時代背景もあったでしょう」


増田「典明さんの兄弟はお父さまの仕事に興味を持たなかったんですか」


加納「兄貴もいたし、弟も、弟と離れてるけど妹たちもいたんだけど、僕1人がそれに興味を持った」


増田「典明さんだけが?」


加納「そう。感性が似ていたんだろうね。名古屋でトップクラスの仕事をしてた人だし、一流どころとの取引も多かった。いろんな仕事してた。例えば着物も笹徳印刷ってのあるんですけど、今でもありますけど、そこの着物の柄の仕事なんかも多かったみたいです。

でも俺はそれには興味なかった」


増田「もっと図案要素、デザイン要素が強いものに興味があったと」



日本報道写真連盟の支部をやっていた

加納「そう。それから親父が日頃からのたまう左翼的な考え方、時の為政者吉田茂じゃないけども、鳩山一郎さんか、そういう時代に対する親父の意見というか、それは他の子供が知らないことで、僕もその親父が言ってることが半分ぐらいしか理解できなかったけどね。いわゆる左というか社会主義というか。おそらく大学時代に共産党に入ってのめりこんでたんだと思う。出身は木曽福島で、旅館の息子なんですけども、それを僕が1番、良くも悪くも引き継いでいる」


増田「写真を始めたのもやはりお父さまの影響ですか」


加納「そうです。親父が日報連つったかな、日本報道写真連盟っていうアマチュアの連盟があって、その支部なんかをやってたんです。毎日新聞にそれの支部があって。それで、その10人か20人ぐらいで、例えば瀬戸のロケに団体で写真撮りに行く。それに僕はついてったりしてた。名古屋一帯にそういういろんな産業がありますよね。そういうのを撮りにいった」


増田「面白そうですね」


加納「あと展覧会をみんなでやったりとかね。親父が年度賞を取ったり。

そういう中で、俺は中学校時代から写真に入っていった。カメラを1台持たせてもらって俺なりにちょろちょろ撮って」


増田「それは素晴らしい経験ですね」


加納「得がたいことだったと思いますね」


増田「以前、加納さんが誰かのインタビューに雑誌で答えてましたけど『東京に行かなくても、あるいは東京にいなかったからこそ全てを学べた』と。名古屋にいたから1から10まで全部やらざるを得なかったと」


加納「うん。父親は部屋を仕切って臨時に暗室作ってフィルムの現像引き延ばしをやってたもんですから。非常に基礎的な部分ですけども、そういうことも僕はそこで覚えていった。親父は写真は趣味でしかなかったけど、彼が趣味だったからこそ俺は全部学べた」


増田「当然、お父さまには東京美術学校の大きな芸術的基礎、柱というか背骨があるわけですよね。元々お父さんの専門はなんだったんですか。絵画とかデザインとか」


加納「絵だね。ゴッホとかマチスとか、ああいう人になりたかったんだと思いますよ」


(第28回につづく=火・木曜掲載)


▽かのう・てんめい:1942年、愛知県生まれ。19歳で上京し、広告写真家・杵島隆氏に師事する。その後、フリーの写真家として広告を中心に活躍。69年に開催した個展「FUCK」で一躍脚光を浴びる。

グラビア撮影では過激ヌードの巨匠として名を馳せる一方、タレント活動やムツゴロウ王国への移住など写真家の枠を超えたパフォーマンスでも話題に。日宣美賞、APA賞、朝日広告賞、毎日広告賞など受賞多数。


▽ますだ・としなり:1965年、愛知県生まれ。小説家。北海道大学中退。中日新聞社時代の2006年「シャトゥーン ヒグマの森」でこのミステリーがすごい!大賞優秀賞を受賞してデビュー。12年「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」で大宅壮一賞と新潮ドキュメント賞をダブル受賞。3月に上梓した「警察官の心臓」(講談社)が発売中。現在、拓殖大学客員教授。


(増田俊也/小説家)


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