【1975 ~そのときニューミュージックが生まれた】


 1975年の新御三家③野口五郎


  ◇  ◇  ◇


 連載を書くことは勉強になる。


 今回、新御三家について調べて、いろいろなことが分かった。

特に野口五郎については、もっとも発見が多かった。


▼野口五郎のデビューがいちばん早い(1人だけ1971年デビュー。他2人は72年)。


▼野口五郎がいちばん若い(1人だけ56年生まれ。他2人は55年)。


 ま、とはいえ、このあたりは、それほど意外性はない。いちばん驚いたのが、この事実だ。


▼75年、野口五郎のシングルがいちばん売れた。


「そりゃ『私鉄沿線』があったからな」と言うなかれ。その後の「哀しみの終るとき」「夕立ちのあとで」「美しい愛のかけら」も含めて、4曲すべて30万枚を突破していて、これは郷ひろみ、西城秀樹をしのぐ水準なのである。


 しかし、それにしてもやはり「私鉄沿線」ということになる。


 売り上げはともかく印象度で、他3枚は一段落ちる気がする。

それほどよく出来ていた。


 ここで過去に指摘したように「ニューミュージック歌謡」としての建て付けが素晴らしい。あくまで歌謡曲でありながら、音楽界の新しい波、そしてこの時代の若者の気分をしっかりと捉えている。


 逆にいえば、その後も30万枚以上を叩き出し続けたのには、「私鉄沿線」の余波もあったろうが、本人とスタッフの有能さや奮闘も大いに奏功したことだろう。


 さて、この年から日本テレビ系「カックラキン大放送!!」が始まる。


 私世代なら、誰もが見ていた人気バラエティー番組だ。


 野口五郎は、坂上二郎や研ナオコとともに、この番組のレギュラーに選ばれ、コメディーの才能を開花させていく。そして自著「僕は何者」(リットーミュージック)には、この頃の途方もない忙しさについて克明に書かれている。


 しかし、よく知られるように、野口五郎は、歌手だけでなくギタリストとしても達者で、つまり本質的には「音楽人」にもかかわらず、コメディーの才能で認知され過ぎたとも思う。それは、彼にとって幸せなことだったのか。


 もしコメディーが不得手だったとしたら。その分、音楽に邁進し、彼の人生全体も、もっと音楽に集約されたものとなっていたはずだ。

そうしたら、著書のタイトルももっとシンプルで、もっと彼らしいものに変わっていたかも──「僕は音楽人」と。


▽スージー鈴木(音楽評論家) 1966年、大阪府東大阪市生まれ。早大政治経済学部卒業後、博報堂に入社。在職中から音楽評論家として活動し、10冊超の著作を発表。2021年、55歳になったのを機に同社を早期退職。主な著書に「中森明菜の音楽1982-1991」「〈きゅんメロ〉の法則」「サブカルサラリーマンになろう」「大人のブルーハーツ」など。半自伝的小説「弱い者らが夕暮れて、さらに弱い者たたきよる」も話題に。日刊ゲンダイでの好評連載をまとめた最新刊「沢田研二の音楽を聴く1980-1985」が好評発売中。ラジオDJとしても活躍。


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