【その日その瞬間】
ダンカンさん
(タレント・俳優/66歳)
◇ ◇ ◇
セ・リーグは7月末に阪神タイガースにマジックが点灯し、独走している。虎ファン代表の有名人といえば、右に出るものがいないダンカンさん。
■巨人が9連覇、世の中は平等じゃない
僕にとって人生の最大の分岐点は阪神との出合いだと思います。生まれたのは戦争が終わって14年後の1959年1月。当時はみんな中流で平等だと言われて育ちました。毛呂山町(埼玉)の出身ですが、中学の時に東京に高島平団地ができ、一軒家に住んでいる人は小さなマイカーを持つのが夢という時代です。
昭和40年、小学校1年の時です。国鉄スワローズから金田正一が巨人に移籍して開幕投手として投げた年です。そこから巨人の9連覇が始まります。
親父が後楽園球場に連れて行ってくれて、巨人対阪神を見ました。親父はガチガチの巨人ファン。その頃は巨人ファンといえば、みんな、先ごろ亡くなった長嶋さんのファンです。居酒屋の暖簾をくぐった時に、「勝った?」と言えば巨人のことだし、「ヒットを3本打った」と言えば長嶋さんのことで、長嶋さんのことを言う時は主語がいらない。
僕が見た試合では村山実が投げました。村山はザトペック投法が有名で、体は大きくないけど、全身を使ってダイナミックに投げる。その投げ方が変わっていて、僕は好きでしたね。でも、必死に巨人に向かっていったのに試合は1点が届かず、負けてしまった。村山は肩を落として寂しそうにしていました。その時、大の大人でも、あんなふうに悲しそうにすることがあるのかと思いました。そういう大人を見るのは初めてでしたから。
当時はうちの親父だけでなく、大人は多かれ少なかれ、「巨人の星」の星一徹のように、怒るとちゃぶ台をひっくり返すような時代です。遅くまで遊んで帰ると、「いつまで遊んでるんだ、バカ野郎!」なんて怒られてね。
ところが、村山はそんな大人たちとは違っていました。背中に哀愁が漂っているというか、あの後ろ姿を見て、子供ながらにジーンとくるものがありましたね。
そして、その年から中学校を卒業するまで巨人が優勝し続け、9連覇する。大人は、世の中はみんな平等だなんて言っているけど、平等でも何でもないじゃないか、嘘つきもいいところだと思いました。あの強い巨人を見てから反骨精神が芽生え、すべて人と違う方に考えるようになりましたね。
■「子供だから球場の中をウロウロしても何も言われないんですよ」
それ以来、阪神一筋。小学校の高学年になると電車にも乗れたから後楽園球場まで出かけました。子供だから球場の中をウロウロしても何も言われないんですよ。ある時なんか、レフトスタンドの下に行ったら風呂場があって。そこの窓をソッと開けたら、背番号「8」が見えた。「高田だ!」って。それからまた別の部屋に忍び込もうとしたら放送席だったみたいで、「やばい!」って逃げました。
あの頃はまず村山ですね。それから江夏、田淵かな。
高校の時に弁論大会があったんですよ。演目は「これからの将来をどう考えるか」。僕はその話をするということにして、実際やったのは「田淵幸一の打撃について」。それもみんな喜んでくれた(笑)。僕は昔からふざけてましたからね。
20歳になる前に、後楽園、神宮、横浜の3つの球場を掛け持ちでアルバイトをしていたことがあります。ホットドッグ売りとか。最初のを売り切ってしまうと、また新たに詰め替えられるから、最後の1個だけ残して、球場の一番上の方でずっと試合を見ていました。歩合制なのにダメなバイトです。それで年間140試合以上、試合を見ることができた。
スコアブックは今も毎試合つけています。もう何十年にもなりますね。ストライクは〇、ボールは横棒、ファウルは△といった具合に。トラ番の記者もつけるけど、彼らは八回には選手のインタビューに行くから途中までしかつけられない。それに休みもあるし。僕のように全試合つけている人は何人もいないんじゃないのかな。スコアブックは家に95年の分から全部あります。
■85年、日本一になった年に「浪速の春団治」からもらったサイン入りバット
記憶に残る瞬間の一番は85(昭和60)年ですね。阪神は64年に優勝したけど、日本シリーズで負けます。日本一になったのはその21年後。
セ・リーグ優勝の対戦相手はヤクルト、場所は神宮です。阪神は九回に外野フライで追いつき、延長十回が終わった時点で5-5。引き分けで優勝です。確か、フジテレビが人気番組の「夜のヒットスタジオ」を飛ばして中継したんじゃないかな。
当時、僕は26歳。阪神の定宿は後楽園球場と道を挟んだところにあるホテルです。その頃には「あぶさん」の水島新司先生と知り合いになっていて、神宮で「浪花の春団治」こと川藤幸三さんに「あとでな」と言われ、先生とホテルで待つことになった。すると、シャワーを浴びた川藤さんがやってきて、「長い間(優勝を)待たせたな、記念にこれ、持ってって」とバットにサインしてくれたんです。そのバットは家宝として大切に取ってあります。
■「松井さんにロッカールームまで案内され、ユニホームにサインしてくれた」
こういう貴重なお宝は実はたくさんある。例えば、松井秀喜のニューヨーク・ヤンキースのユニホーム。
次の日本一は一昨年の2023年です。38年ぶりです。長男の甲子園、次男の虎太郎と3人で自宅の風呂場でビールかけをやったのかな。でも、85年があまりに強烈過ぎて、あの時みたいには盛り上がらなかったですね。
今年は阪神にもうマジックが出ました。強過ぎてハラハラドキドキ感がないですね。阪神ファンの場合、普通の人生の他に、1年のうちの7カ月は143個(試合)の小さな人生があるわけです。今日は93試合目(7月29日)で、残りもう50試合しか見ることができない。今年は優勝のうれしさより、試合数が減っていく寂しさが強いですね。胸の中は熱いのに、もう秋風が吹き始めたっていう感じかな。
■談志師匠に一度だけ褒められた思い出
阪神との出合いとともに僕にとって大きかったのは師匠の立川談志との出会いです。このことは4年前に日刊ゲンダイの連載「ダンカンの笑撃回顧録」でも書きました。
僕はダメな弟子だったけど、一度だけ褒められたことがあります。ある時、自宅に草が生えているので、師匠が「キレイにしとけ」と言って高座に出かけて行った。それを僕は植木まで全部抜いちゃってね。帰って来た師匠に「バカ野郎、何やってんだ」と怒られて。そこで「ちょっと待ってください」と言って、何をやったかというと、近所の植木屋で20本くらいかき集めたんです。師匠の家の近くには植木屋さんが多かったですからね。
師匠に公衆電話から報告したら、車を出して運んでくれて、立派な庭ができた。師匠は「でかした!」と大喜びでしたね。バカほどかわいいということなんでしょうかね(笑)。
談志師匠の最後の弟子は立川談吉です。実は来年3月、真打ちに昇進するのですが、この前「相談がある」と訪ねてきましてね。「2代目立川談寛」を名乗らせてほしいと。俺みたいにくだらない人間の名前を襲名したいって言うんですよ。「それはよくないんじゃないのかな」とは言ったけど……。ただ、よく考えてみたら俺の名前が残るのかと……。いろいろやっておくもんだなと思いましたね。談志師匠が聞いたら「おまえふざけるな、ダンカン、バカヤロー」と言われそうだけど(笑)。
映画「抗う者たち」が公開中です。僕にとっては10本目くらいの主演作になります。北野武監督の2作目「3-4X10月」で柳憂怜と共演したのですが、それ以来35年ぶりの共演です。あの映画は沖縄に拳銃を買いに行く話でしたが、今回は運命の不思議について描いています。北野監督のファンの方にも楽しんでいただけると思います。(聞き手=峯田淳)