今回のコラムのテーマはハリソン・フォード(1942年7月13日生れ)である。

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(『インディ・ジョーンズ / 魔宮の伝説』より イラストby龍女)

今回取り上げるのは、遂に6月30日公開されるシリーズ第5作
『インディ・ジョーンズと運命のダイヤル』
で生涯の当たり役
インディアナ・ジョーンズ
を演じるのが最後になるからだ。


シリーズ第三作目
『インディ・ジョーンズ 最後の聖戦』
を観た人がいたら、思い出して欲しい。

『インディ・ジョーンズ』のハリソン・フォードがPUFFYのあの曲に登場する謎とは?作詞した井上陽水はなぜ名前を出したのか

(『インディ・ジョーンズ 最後の聖戦』よりショーン・コネリー演じるヘンリー・ジョーンズ博士 イラストby龍女)

「インディアナ」とは本当の名前ではない。
正式には
ヘンリー・ウォルトン・ジョーンズ・ジュニア博士(考古学)だ。
父親のヘンリー・ジョーンズ博士
(演じたのは、ショーン・コネリー。1930~2020)
からは「ジュニア」と呼ばれている。

実は「インディアナ」とは、飼っていた犬の名前である。

これは原案・企画を書いた製作総指揮の
ジョージ・ルーカス(1944年5月14日生れ)
が1970年代に飼っていた大型犬種のアラスカン・マラミュートの名前から発想した。

『インディ・ジョーンズ』のハリソン・フォードがPUFFYのあの曲に登場する謎とは?作詞した井上陽水はなぜ名前を出したのか

(ジョージ・ルーカス イラストby龍女)

さて今回はフィクションで一番有名な考古学をしているキャラクターを取り上げている。
筆者がこのコラムでやっている行為を学問に例えるとしたら考現学である。

本題となる疑問は、
「どうして
PUFFYの『渚にまつわるエトセトラ』(1997年4月16日発売)
の歌詞の中でハリソン・フォードが登場するのか?」
である。

止まり木には あのハリソンフォード
私たちは スゴイ ラッキーガール

歌詞を書いたのは、PUFFY(大貫亜美・吉村由美)をデビュー時からプロデュースしていた奥田民生(1965年5月12日生れ)と組んだ
シンガーソングライターの
井上陽水(1948年8月30日生れ)である。

『インディ・ジョーンズ』のハリソン・フォードがPUFFYのあの曲に登場する謎とは?作詞した井上陽水はなぜ名前を出したのか

(井上陽水 イラストby龍女)

これは筆者の勝手な想像だが、もし井上陽水本人にこの質問を直接ぶつけても、要領を得ない答えで煙に巻かれそうな気がする。

井上陽水の歌詞は、シュールな内容が多く、理屈で書いたモノと言うより思いつきの要素が大きい気がしているからだ。

しかし、野暮は承知で井上陽水がどうしてあのような歌詞を思いついたのか?
筆者は井上陽水とハリソン・フォードが生きた時代の関連性から、仮説を立ててみることにしたのである。
重要なヒントは、『渚にまつわるエトセトラ』のPVで披露しているPUFFYの踊りの振り付けに隠されていたのである。
『渚にまつわるエトセトラ』は
PUFFYの4枚目のシングルである。

デビュー曲の『アジアの純真』(1996年5月13日)と同じ作詞・井上陽水、作曲と編曲が
奥田民生という座組である。

イラストは、PUFFYが空手の型をモチーフにした振り付けを踊っているシーンを引用した。
このPVでは他にも、『8時だヨ!全員集合』で1979年から1980年にザ・ドリフターズの加藤茶と志村けんが流行らせたヒゲダンスも踊っている。

『インディ・ジョーンズ』のハリソン・フォードがPUFFYのあの曲に登場する謎とは?作詞した井上陽水はなぜ名前を出したのか

(『渚にまつわるエトセトラ』のPVから引用 イラストby龍女)

イラストの踊りの元ネタは、西城秀樹(1955~2018)の最大ヒット曲で、ヴィレッジ・ピープル『Y.M.C.A.』のカバー
『YOUNG MAN (Y.M.C.A.)』 (1979年2月21日)である。
奥田民生は、西城秀樹の10歳年下で、同じ広島県広島市東区出身である。
思春期に流行った曲なので、この曲自体のモチーフになったのだろう。

Y.M.C.A.とはキリスト教青年会(Young Mens Christian Association)の略で、現代でも福祉活動をしている民間施設で、ユースホステルなどを運営している。
安い料金で宿泊施設を提供しているので、海沿いの旅をモチーフにした『渚にまつわるエトセトラ』の発想の元になったようだ。

その連想から井上陽水も、歌詞の中でアルファベットの略字で団体を示す言葉を並べている。
BBC(英国放送協会British Broadcasting Corporation。1922年に設⽴。英国の公共放送)
BOAC(英国海外航空。 British Overseas Airways Corporationは、1939年から1974年までイギリスに存在した国営航空会社。ブリティッシュ・エアウェイズの前身)

元ネタの『YOUNG MAN(Y.M.C.A)』はあまりにもヒットしたので、同じ1979年にオマージュを献げたコミックソングが誕生した。
7月1日に発売された武田鉄矢(1949年4月11日生れ)が作詞した海援隊の
『JORDAN JORDAN』である。
武田鉄矢は井上陽水と同じ福岡県出身でフォークシンガーから俳優になった人物だ。
武田鉄矢は都会の福岡市博多区で、井上陽水は炭鉱で栄えた田川郡糸田町で育った。
筆者の父は、田川郡に近い行橋市で育ったので、ほぼ同郷の井上陽水が好きである。

では、今回の本題であるハリソン・フォードとはどういう関係があるのだろう?
それはこの1979年とは、ハリソン・フォードにとっては
主人公ルーク・スカイウォーカー(マーク・ハミル)を助ける
相棒のチューバッカと共に密輸業を営む無法者
ハン・ソロとしてブレイクした大ヒット映画
『スター・ウォーズ』(全米公開は1977年。後に『エピソード4/新たなる希望』と改題)が1978年に日本公開された翌年であった。


つまり、ハリソン・フォードはブレイクしたばかりのホットなスター俳優であったのだ。

『インディ・ジョーンズ』のハリソン・フォードがPUFFYのあの曲に登場する謎とは?作詞した井上陽水はなぜ名前を出したのか

(『スターウォーズ』のハン・ソロ イラストby龍女)

さてここまで、井上陽水が歌詞にハリソン・フォードを取り上げた動機は何となく分かった気がする。
しかし歌詞が書かれたのは元ネタの『YOUNG MAN(Y.M.C.A)』と同時期ではない。
1997年の事である。
インディ・ジョーンズシリーズも井上陽水の発想に影響を与えているのではないかと考えた。
更に考察を進めていこう。
ジョージ・ルーカスは『スター・ウォーズ』第1作の公開日の前日、1977年5月24日に公開日のプレッシャーに耐えきれず、休暇を取るために当時の妻で映画編集者のマーシア・ルー・グリフィンとハワイにでかけた。
そこには友人でもあった映画監督のスティーヴン・スピルバーグ(1946年12月18日生れ)も家族で滞在していた。
二人は海岸で砂遊びをしながら、スピルバーグは映画のアイデアを語った。
「007のような映画を作りたい」
スピルバーグは、007シリーズの大ファンだった。
この頃007シリーズを製作する会社イーオン・プロダクションズの
アルバート・R・ブロッコリ(1909~1996)に直接会って
「監督をしたい」
と言ったそうだが断られた。
当時のスピルバーグはやっと『ジョーズ』(1975年)をヒットさせたばかり。

次のヒット作『未知との遭遇』が公開されるのは半年後の11月16日だったので、まだまだ新進気鋭の監督だった。

『インディ・ジョーンズ』のハリソン・フォードがPUFFYのあの曲に登場する謎とは?作詞した井上陽水はなぜ名前を出したのか

(スティーブン・スピルバーグ イラストby龍女)

ジョージ・ルーカスは
「それよりも良いアイデアがあるよ」
『スター・ウォーズ』と同じ頃に考えていた企画を提案した。
1930年代に流行ったB級冒険活劇の要素
幼少時代に憧れた職業考古学者を主人公にしたインディ・ジョーンズだった。
インディ・ジョーンズがプレイボーイと言うキャラ設定は、明らかに007の主人公のジェームズ・ボンドの影響受けている。
インディの父親役にショーン・コネリーを起用したのも初代ジェームズ・ボンドに対するオマージュである。

『インディ・ジョーンズ』のハリソン・フォードがPUFFYのあの曲に登場する謎とは?作詞した井上陽水はなぜ名前を出したのか

(ショーン・コネリーが演じたジェームズ・ボンド)

スティーヴン・スピルバーグは1979年に『1941』を製作して大コケしてしまった。
次の監督作品は当たらなければいけなかった。
そこで頼ったのが、あの時の企画を提案した友人のジョージ・ルーカスである。

スピルバーグは前作『1941』の失敗を取り返すためには、映画製作会社でメジャースタジオのパラマウントが要求する予算以内で素早く撮影を終えることが重要な課題であった。
実は、インディ・ジョーンズ役の第一候補は、ハリソン・フォードではなかった。
トム・セレック(1945年1月29日生れ)であった。
しかし、ちょうど主演していたTVドラマシリーズ『私立探偵マグナム』の撮影中だったために、断られてしまった。

そこでお鉢が回ってきたのが、ハリソン・フォードである。
選べる立場になった『スター・ウォーズ』以降は年一回の映画の仕事をするスタンスでオファーを引き受けていたからだ。
たまたま定められた撮影期間中に仕事を入れていなかった。

スピルバーグは予定されていた撮影期間を10日も余らして撮影を終了できた。
そして映画も大ヒット。
ここから、映画業界内でスティーヴン・スピルバーグは
「早撮りの名人である」
好評価を得るようになり、名監督の道を進むきっかけになった。

ハリソン・フォードにとっても、インディ・ジョーンズという当たり役を得たことでスターとして
自分のスタンスで仕事を続ける事が出来るようになった。

次の頁では、インディ・ジョーンズ以前と以後を取り上げて、そのハリソン・フォードの俳優活動が、井上陽水の『渚にまつわるエトセトラ』の歌詞にどういう影響を与えたのか?
核心に迫っていこう。
ハリソン・フォードは1942年生れだ。
同い年には早くから音楽でその才能を発揮したスーパースターを複数輩出している、当たり年である。

まずは、最も若い内からその才能を認められていたのは
2018年の8月16日に亡くなった
アレサ・フランクリン。
3月25日生れである。

1888年創業の老舗コロムビア・レコード(日本ではCBSソニーとして知られる。日本コロムビアとは別会社)でデビューしたのは、1961年の19歳の頃である。
彼女を大きなヒットに導いたのは、アトランティック移籍後の1967年のシングル『I Never Loved A Man (The Way I Love You)』である。
25歳の時で当初想定されたより遅かったそうだ。

『インディ・ジョーンズ』のハリソン・フォードがPUFFYのあの曲に登場する謎とは?作詞した井上陽水はなぜ名前を出したのか

(アレサ・フランクリン イラストby龍女)

アレサ・フランクリンの2年遅れの、1963年にコロムビア・レコードと契約したのは
アメリカの優れたエンターテイナーを示す
「EGOT」
(TV界のエミー賞、音楽界のグラミー賞、映画界のオスカー、演劇界のトニー賞)
を全て受賞した実在の人物
バーブラ・ストライサンドは4月24日生れである。
最近では映画『TAR』の主人公、リディア・ター
(演じたのは、ケイト・ブランシェット。シリーズ第4作目『インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国』の悪役でもある)
のキャラ設定でも注目された。

『インディ・ジョーンズ』のハリソン・フォードがPUFFYのあの曲に登場する謎とは?作詞した井上陽水はなぜ名前を出したのか

(バーブラ・ストライサンド イラストby龍女)

世界中のべビーブーマー世代(初期は日本の団塊の世代。1946~1964生れを指す)の若者達に多大な影響を与えたスーパーバンド
ビートルズ(1960~1970)のベイシスト兼ヴォーカリストで
70年代は、妻のリンダ(1941~1998)と組んだバンド
ウィングス(1971~1981)でもヒット曲を連発していた天才マルチプレイヤー(バンドに必要な楽器を全部演奏できる)のポール・マッカートニーは6月18日生れ。

イラストに採用したのは、ベビーブーマーのスティーヴン・スピルバーグが好きだった007シリーズの主題歌『007/死ぬのは奴らだ』を担当した作品の頃のポールである。

『インディ・ジョーンズ』のハリソン・フォードがPUFFYのあの曲に登場する謎とは?作詞した井上陽水はなぜ名前を出したのか

(『007/死ぬのは奴らだ』の頃のポール・マッカートニー イラストby龍女)

ハリソン・フォードは、この三人よりも遅い7月生れだっただけでなく、才能が開花したのもかなり遅かった。
これは、選んだ職業をいつ選択したのかにも関係している。
ハリソン・フォードは、実は両親とも俳優だったそうだ。
しかし、二人ともハリソンが生れた頃は既に俳優は辞めていたようだ。
父親のジョン・ウィリアム・“クリストファー”・フォードは広告会社の重役になっていた。
父ジョンはアイルランド系で、母のドロシー(旧姓ニデルマン)はユダヤ系の移民である。
ハリソン・フォードは内向的で高校までいじめられたそうで、俳優という職業を選ぶ発想そのものが無かったかもしれない。
ウィスコンシン州のリポン・カレッジで哲学と英文学を専攻中に、うつ病にかかってしまいカウンセリングをウケたところ
「演技をやってみたらどうか?」
4学年の最終4半期に演技の授業を受けたのがきっかけで俳優を目指すことになったそうだ。

1966年にコロンビア・ピクチャーズと専属契約するが、端役に留まって契約が切れた。
大きな仕事が見つかるまで、大工をしながら機会を待っていたようだ。
ハリウッドで働く大工としてはかなり腕が良かったらしく、この遠回りがハリソン・フォードに次なるチャンスをもたらした。
大工として働いていた映画プロデューサー、フレッド・ルースの紹介を受け、
ジョージ・ルーカス監督、フランシス・フォード・コッポラ製作の映画
『アメリカン・グラフィティ』に出演。
主役ではなかったが、台詞のある脇役として役作りのアイデアを提案した努力が認められた。
続けてフランシス・フォード・コッポラ監督の『カンバセーション…盗聴…』に出演。
その後はアメリカン・ゾエトロープ(コッポラのスタジオ)で裏方として働きながら、コッポラやルーカスなどと親交を結んだ。
そしてブレイクのきっかけになった『スター・ウォーズ』のオーディションを受け合格。

筆者がインディ・ジョーンズ以外でハリソン・フォードがでた作品で一番観たのは
『ブレード・ランナー』(1982)のデッカード役である。
同じSFだが、『スター・ウォーズ』のスペースオペラに対して
サイバーパンクというジャンルの記念碑的作品である。

『インディ・ジョーンズ』のハリソン・フォードがPUFFYのあの曲に登場する謎とは?作詞した井上陽水はなぜ名前を出したのか

(『ブレード・ランナー』のデッカード イラストby龍女)

PUFFYは、奥田民生とは同じ事務所SMA(ソニー・ミュージック・アーティスツ)の後輩にあたる。
奥田民生は1993年にロックバンドのユニコーンを解散してソロ活動の最中だった。
初めてプロデュースしたのがPUFFYであった。

1997年の井上陽水はオリジナルアルバムの発売はなく、キャリアが停滞していた時期である。
ハリソン・フォードは当時の新進気鋭の俳優ブラット・ピットと共演した映画『デビル』が公開された年でもある。
井上陽水もハリソン・フォードも同様に若い才能を借りてマンネリ化したキャリアに活力を与えようとしていた。
井上陽水は、アメリカの世代で言うとベビーブーマーに当たり、ビートルズに憧れてミュージシャンになった一人だ。

ハリソン・フォードは年齢こそポール・マッカートニーと同い年だが、社会人としての始まりは遅く、ほぼベビーブーマーと活動開始時間は重なるのである。
ハリソン・フォード自身もプレイボーイで、この時代は2人目の妻の脚本家メリッサ・マシソン(1950~2015。代表作はスピルバーグ監督作品『E.T』)と生活していた。
2004年に離婚した。
そのきっかけは1997年に放送が開始したTVドラマ『アリー my Love』の主役弁護士のアリー・マクビールを演じた
キャリスタ・フロックハート(1964年11月11日生れ)と2002年に出逢ったからだ。
2010年にはキャリスタと三度目の結婚をして今も続いている。

1993年の番組
『スーパースターズ ハリウッド・アクション篇 ハリソン・フォード』
で映画雑誌『プレミア』のナンシー・グリフィンは
「彼はインテリ女性のセックスシンボルだと思うわ」
と指摘している。
これは、インディの父親役を演じたショーン・コネリーの大ファンに、日本を代表するインテリ女性と言える黒柳徹子(1933年8月9日生れ)がいたこととも共通している。

エジプトの考古学者で早稲田大学名誉教授の
吉村作治(1943年2月1日生れ)は、今は第一線を退いているためメディアには出ていない。
過去には『世界ふしぎ発見!』で黒柳徹子と何度も共演している。
考古学の普及の一環で、インディ・ジョーンズのコスプレもしたこともある。

ハリソン・フォードが演じたインディ・ジョーンズの影響は絶大で、この映画をきっかけに考古学者の志望者が増えたそうだ。
ハリソン・フォード自身は、若手の考古学者を育成するプログラムに積極的に資金提供をしているそうだ。

考古学と井上陽水は無関係なのかと思うと案外そうでもない。
井上陽水の親友であるタモリ(1945年8月22日生れ)が担当している番組
『ブラタモリ』は地質学が度々登場する。
考古学において、発掘のする場所を特定する地質の知識は必要不可欠だ。
あのブラタモリは別名考古学バラエティと言っても過言ではない。
タモリは中退だが、吉村作治と同じ早稲田大学の出身である。

井上陽水が『ブラタモリ』のテーマ曲も歌っている。
第4シリーズのオープニング曲『女神』は
まるで冒険へ誘うような冒頭の歌詞がついている。

ハロー ハロー お元気
今夜 何してるの
TVなんか 見てないで
どこかへ 一緒にいこう

筆者は当時から、PUFFYに書いた井上陽水の歌詞の行間には

若い女性にもてたいオッサンの姿を感じていた。

ハリソン・フォードという人物を選んだ背景として特に考えられることがある。
井上陽水は歯医者の息子で大学受験に失敗した、インテリ崩れの男である。
あの歌詞にはインテリ女性にもてそうなハリソン・フォードに対する羨望や願望が滲み出ているように思えてならないのだ。

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