百貨店業界は再編の岐路に立たされている。三越伊勢丹ホールディングス(HD)では、伊勢丹新宿本店の2025年3月期の総額売上高が4212億円と過去最高を達成した一方、傘下の三越と伊勢丹の地方店は縮小、閉鎖が続く。
■百貨店に庶民の居場所はもうない
立地でも、施設の良さでも、ファッション性でもない。「日本の百貨店改革は、組織と人で負ける」と元三越伊勢丹ホールディングス社長、大西洋さんはいう。
百貨店の衰退を、もうだれも疑わなくなった。「文化の創造・発信拠点」として全国各地で城下町を形成した往年の姿はもうない。過去10年のうちに閉店した主な地方百貨店は約50店に上る。1990年代初めに約10兆円あった業界売上高は30年間でほぼ半減した。
ここ数年の最高益は、吹けば飛びかねないインバウンド客によってもたらされたものだ。成功しているとされる都心の旗艦店でさえ、デパ地下の食品需要と囲い込んだ富裕層の両極によって、イメージが大きく膨らんでいるように見える。ファッション市場を牽引してきた庶民の憧れの的は、国民共有の「思い出」と化してしまうのか。
■ヴィトンを入れないことが「伊勢丹のプライド」だった
昨年11月、高級ブランド「ルイ・ヴィトン」がついに、伊勢丹新宿本店に開業した。
自主編集売り場の企画力、提案力を強みにし、顧客の買い回りを阻害しかねない海外ラグジュアリーブランドの拡大を抑え、主導権は譲らないという態度を表していた。売り場のテナント化が加速する百貨店業界にとって最後の牙城ともいえる象徴だったが、崩れた。百貨店はまた新たな転換期を迎えたことになる。
多角的な構造改革の必要性が叫ばれながら、実践を浸透させられず、求心力を失った。その要因はどこにあったのだろうか。かつて、改革の旗手として「ミスター百貨店」と称された大西さんに当時を振り返ってもらい、「失敗の本質」を探った。
■社長から「会って話がしたい」と突然の電話
三越と伊勢丹が経営統合を果たしたのは2008年4月のことだ。景気減退に伴う業績不振が背景にあった。それからおよそ1年後の09年6月、大西さんは伊勢丹社長に就任した。紳士服の経験が長く、社長につながる王道ルートからは外れたポジションにいた。周囲のだれよりも、指名に度肝を抜かれたのは大西さん本人だったという。
「青天の霹靂とは、このことですよ」
2社の統合は実質的に伊勢丹が主導権を掌握した。伊勢丹の武藤信一社長が三越伊勢丹ホールディングスの初代会長兼CEOに就任。同じく伊勢丹出身の大西さんは三越の常務兼MD統括部長となり、元はライバルだった店の売り場改革に走り回っていた、5月最後の週のある日のことだ。
武藤氏から唐突に、会って話がしたいと電話がかかってきた。こちらから訪ねる間もなく、日本橋の店に姿を現した武藤氏は会議室で大西さんと向かい合った。話は3時間に及んだ。自身のこれまでの経験、会社の状況、そして健康状態の懸念について語ったあと、こう切り出した。
■「もう時間がない、今ここで決めてくれ」
「大西、伊勢丹の社長をやれ。もう時間がない、今ここで決めてくれ」
淡々としながらも、言葉は切迫感を含んでいた。三越と伊勢丹を経営統合に導いた武藤氏の後継とはつまり、ゆくゆくは国内最大の売上高となる百貨店のトップである。社内からも取引先からも、「99%有力と目されていた社長候補がいた」(大西さん)。衝撃を飲み込む一瞬の間をおいて、大西さんは答えた。
「わかりました。やらせていただきます」
販売員からバイヤー、新規事業開発、マレーシアの新店運営、メンズ館の立ち上げなど、それまで現場で試行錯誤してきたことの延長線上に「権限があればもっとできることがある」、そう直観したからだ。社長打診からわずか1週間後の6月1日、取締役会で伊勢丹7代目の代表取締役社長として昇格人事が承認された。
それから7カ月後の2010年1月、武藤氏は多臓器不全のため死去した。64歳だった。
■総合スーパーと変わらない百貨店の営業利益率
当時は、大丸と松坂屋が経営統合するなど百貨店業界の合従連衡が加速していた。その中でも「伝統の三越」と「革新を尊ぶ伊勢丹」というまったく異なる2つの百貨店の統合は、端から困難の極みとみなされた。それは、メインバンクの主導によって強行的に進められたという理由だけではない。戦後日本の経済成長の原動力となった、年功序列・終身雇用・企業内組合という日本型経営によって築かれた「岩盤の壁」に、真っ向から立ち向かわなければならないことが明白だったからだ。
大西さんは、組織の頂点に立つというより、現場の実感を後ろ盾にして物事を動かしていくプレーヤー感覚のリーダーだった。
社長に就任して真っ先に取りかかったのは「仕入れ構造改革」だ。
「ものづくりの現場から販売に至るまで、商社や卸問屋、アパレル業者など3つか4つの中間業者が入り、その分のコストが上乗せされていく。
百貨店の営業利益率は平均3~5%台で、薄利多売型のGMS(イオンなど)の2~3%台とほとんど変わらない水準にある。専門小売店(ユニクロなど)の15%前後、高級スーパー(成城石井など)の10%台、不動産賃貸型商業施設(アウトレットなど)の15%前後と比較しても低いことがわかる。一方で、代表的な海外ブランドで比較すると、ルイ・ヴィトンやディオールなどを展開するLVMHモエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトングループ全体の営業利益率は26%前後である。
■百貨店が「場所貸し」のままでいいのか
百貨店で扱う多くの商品は、実際に売れた分だけを「仕入れ」とし、残った分はメーカーが引き取る「消化仕入れ」の形態が中心だ。低い利益率と引き換えにしても、百貨店は経営リスクを抑えつつ、中間業者に頼ることで豊富な種類の商品を並べることができる利点を享受してきた。だが、売り上げ低迷が続く中で、いよいよ限界が見えてきていた。
可能な限り中間業者を排し、生産業者とオリジナル商品を企画して商品を全量買い取り、在庫・販売の責任とリスクを百貨店側が負う。大西さんは、この買取仕入れの割合を衣料品全体の3割にまで引き上げようと目標を掲げた。それ自体は決して新しいことではない。1970年代のはじめごろまで百貨店は「買取仕入れ」を主流としてきた。
だが、時代とともに「小売の王様」に君臨するようになった百貨店は経営効率の重視に偏り、いつしかリスクを負うことを避けるようになっていた。プロ意識で商品を厳選するセンスや先見性、販売力ではなく、効率・効果的に集客力を発揮してくれるブランド誘致=場所貸しに重心が移っていった。伊勢丹にも同様の課題があったが、大西さんの目には、伊勢丹の3倍の歴史のある三越は、その筆頭のように映っていた。
■「あいつら一体何をやってるんだ」
伊勢丹では1996年から、婦人服で自主編集型の売り場「リ・スタイル(ReStyle)」を運営してきた。最先端のファッション、国内外の新進気鋭のデザイナー、ヴィンテージ品などを独自の切り口で演出し、トレンドを創出・発信する。まだ知られていない才能あるデザイナーやブランドを発掘する目利きの高さに定評があり、特定のブランド目当てだけではなく、新たな世界観を求める顧客を引きつけてきた。
三越と伊勢丹が統合した当時、三越に入社して3年目だった元バイヤーの男性(42)は、伊勢丹バイヤーと出張先で一緒になった同僚たちが、伊勢丹社員の仕事ぶりに圧倒されていた様子を鮮明に覚えているという。
「早朝から生地がどうだ、色やデザインがどうだって話し合いながら、買い付けや生産者とのミーティングに忙しそうに走り回っている。あいつら一体何をやってるんだって。かたや三越はブランドや業者との接待が多かったので。伊勢丹との仕事のレベルの差を思い知らされた」と振り返る(元三越社員)。
伊勢丹が強みとした自主編集売り場は、直接生産者とつながる「買取仕入れ」が中心だったが、割合としては婦人服全体の2~3%にすぎなかったという。
「仕入れ構造をもっと大胆に変えて原価を下げ、利益率を高めるには、一定のロット(数量)を確保する必要があります。伊勢丹としては、全国に店を展開していた三越と統合する一つのメリットがそこにありました。ですが大元のところでは、百貨店の人間があまりにリスクを取らなさすぎる現状を変えたい。そういう思いのほうが、先に立っていましたね」と大西さんは振り返る。
■先代が果たせなかった夢を継いで
改革を急いだのにはもう一つの理由がある。「地方をなんとかしなければ」という焦りだ。消化仕入れ型の流通構造においては、店頭で売れず返品が増える→取引先がモノ作りのコストを抑制する→モノ作りの現場にしわ寄せがいく→日本のモノ作りが衰退する――という悪循環に陥っているという認識だ。
「高い技術のあるアパレルの生産拠点の多くは地方にある。This is Japanのような、日本のモノをしっかり売っていく。都市型の百貨店が商品を仕入れた時点でつくり手に少しでも多くお金を回していく仕組みにしなければ、日本のものづくりは続かなくなるという危機感がありました」
実は、流通構造の変革は、前任の武藤氏が伊勢丹常務時代に先例を作っていた。伊勢丹から社内ベンチャー的にアパレルメーカーを立ち上げ、自ら工場を持って繊維を扱い商品を卸す事業を始めたのだ。
「武藤も、サプライチェーンに対する問題意識ですよね。その新会社で開発した商品を一番最初に扱ってくれたのは神戸大丸なんです。(身内の)伊勢丹じゃなかった。だから神戸大丸には足を向けられないって、武藤はよく言っていました。新しいことで社内的にも難しかったのでしょう。結局、その会社は大失敗に終わるのですが、百貨店がものづくりに入っていかなければいけない、という考えは武藤とずっと共有してきたものです」
常務の武藤氏が立ち上げたアパレルメーカーの商品を、他社が最初に仕入れたという出来事から、大西さんはすでに「改革は内側から阻まれる」という予兆に触れていたことになる。
■「ミスター百貨店」は、なぜ失敗したのか
仕入れ構造改革によって、三越伊勢丹全体の買取仕入れの割合は5年間で婦人服のおよそ2割にまで引き上げられた。だが、現場を去って8年。「現在、取り組みはだいぶ後退したと聞いています」と大西さんはいう。
地方店のネットワークを生かした素材調達や商品開発の独自体制が浸透するまもなく、相次ぐ地方店の閉店によって、改革に向かう原動力そのものが奪われていった印象は否めない。
コロナ禍が明け、円安効果で集めた外国人客と富裕層向け外商が活況を呈する足元で、課題の本丸が見えにくくなったのではないだろうか。何よりも、新宿伊勢丹においては、長年のポリシーを覆し、世界統一のブランドコンセプトで多大な集客力を誇る「ルイ・ヴィトン」に門戸を開くことになったことが、目指した改革の行き詰まりを物語っている。
大西さんが「ミスター百貨店」と称されたのは、手掛けた改革の中身がどれも、業態全体が抱える構造的問題の核心部分に堂々と切り込むものだったからに他ならない。仕入れ改革の他にも、営業時間の短縮、販売職への成果報酬制度の導入など、スローガンにとどまらない具体的な変革に着手し、業界に大きなインパクトを与えた。だが、大西さんは最終的に、身近な経営陣、中間管理職、そして労働組合から突き上げられる形で退陣に追い込まれることになる。
何が見え、何が見えていなかったのだろうか。
■徹底した“売り場主義”が仇に
「大西さんは現場によく足を運んでコミュニケーションをとっていたけど、中間管理職との対話が不足していた」
ある役員に、大西さんはこう言われたという。
「確かに、1週間の中でやっぱり現場に出る時間が多いし、外で人に会う機会も多いので、おのずと執行役員や管理職と話せる時間は限られていました。どうにか時間を作ってくれと頼まれて、土曜日にようやく対応するという状況。そういう仕事の仕方をしていたのがやっぱりダメでしたね。
日本の企業には段階というのがあって、それに従うと意思決定がどんどん遅れていくんです。フラットにしてやっていくべきだと、今でもそう思っているんですが、私の考えが甘かったということですね」
三越と伊勢丹は統合によって、当時総勢1万5000人を超える巨大組織となった。互いの組織風土の壁を溶かすこともままならないうちに、現場感覚を前面に打ち出したスピード改革が次々と実行に移されていった。
だが、図体が大きくなった組織の中で、人の意識や体質がすぐに変わるはずもない。経営幹部のみならず、中間管理職や中間業者に位置する人々の内心に「ないがしろにされた」、という負の感情が広がっていった可能性がある。その時、前を向いてただひた走る大西さんの軸足は、現場である売り場、そしてメディアの中にあった。(後編へつづく)
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大西 洋(おおにし・ひろし)
羽田未来総合研究所社長・元三越伊勢丹HD社長
1955年生まれ。慶応義塾大学卒業後、1979年伊勢丹入社。経営企画部担当長、執行役員立川店長、経営企画部長、三越常務取締役を経て2009年伊勢丹社長就任。2012年三越伊勢丹ホールディングス代表取締役社長に就任。2017年3月に退任後、2018年~2025年、羽田未来総合研究所代表取締役社長。
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座安 あきの(ざやす・あきの)
Polestar Communications取締役社長
1978年、沖縄県生まれ。2006年沖縄タイムス社入社。編集局政経部経済班、社会部などを担当。09年から1年間、朝日新聞福岡本部・経済部出向。16年からくらし班で保育や学童、労働、障がい者雇用問題などを追った企画を多数。連載「『働く』を考える」が「貧困ジャーナリズム大賞2017」特別賞を受賞。2020年4月からPolestar Okinawa Gateway取締役広報戦略支援室長として洋菓子メーカーやIT企業などの広報支援、経済リポートなどを執筆。同10月から現職兼務。朝日新聞デジタル「コメントプラス」コメンテーターを務める。
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(羽田未来総合研究所社長・元三越伊勢丹HD社長 大西 洋、Polestar Communications取締役社長 座安 あきの)
なぜ日本人は百貨店に行かなくなったのか。2012年~2017年まで三越伊勢丹HD社長を務めた大西洋さんに、ジャーナリストの座安あきのさんが聞いた――。(前編)
■百貨店に庶民の居場所はもうない
立地でも、施設の良さでも、ファッション性でもない。「日本の百貨店改革は、組織と人で負ける」と元三越伊勢丹ホールディングス社長、大西洋さんはいう。
百貨店の衰退を、もうだれも疑わなくなった。「文化の創造・発信拠点」として全国各地で城下町を形成した往年の姿はもうない。過去10年のうちに閉店した主な地方百貨店は約50店に上る。1990年代初めに約10兆円あった業界売上高は30年間でほぼ半減した。
ここ数年の最高益は、吹けば飛びかねないインバウンド客によってもたらされたものだ。成功しているとされる都心の旗艦店でさえ、デパ地下の食品需要と囲い込んだ富裕層の両極によって、イメージが大きく膨らんでいるように見える。ファッション市場を牽引してきた庶民の憧れの的は、国民共有の「思い出」と化してしまうのか。
■ヴィトンを入れないことが「伊勢丹のプライド」だった
昨年11月、高級ブランド「ルイ・ヴィトン」がついに、伊勢丹新宿本店に開業した。
本店本館にヴィトンを「入れない方針」は、少なくとも2009~17年にトップを務めた大西さんと、その前任の武藤信一氏の代(2001~09年)には明確に貫いていた「伊勢丹のプライド」そのものだったという。
自主編集売り場の企画力、提案力を強みにし、顧客の買い回りを阻害しかねない海外ラグジュアリーブランドの拡大を抑え、主導権は譲らないという態度を表していた。売り場のテナント化が加速する百貨店業界にとって最後の牙城ともいえる象徴だったが、崩れた。百貨店はまた新たな転換期を迎えたことになる。
多角的な構造改革の必要性が叫ばれながら、実践を浸透させられず、求心力を失った。その要因はどこにあったのだろうか。かつて、改革の旗手として「ミスター百貨店」と称された大西さんに当時を振り返ってもらい、「失敗の本質」を探った。
■社長から「会って話がしたい」と突然の電話
三越と伊勢丹が経営統合を果たしたのは2008年4月のことだ。景気減退に伴う業績不振が背景にあった。それからおよそ1年後の09年6月、大西さんは伊勢丹社長に就任した。紳士服の経験が長く、社長につながる王道ルートからは外れたポジションにいた。周囲のだれよりも、指名に度肝を抜かれたのは大西さん本人だったという。
「青天の霹靂とは、このことですよ」
2社の統合は実質的に伊勢丹が主導権を掌握した。伊勢丹の武藤信一社長が三越伊勢丹ホールディングスの初代会長兼CEOに就任。同じく伊勢丹出身の大西さんは三越の常務兼MD統括部長となり、元はライバルだった店の売り場改革に走り回っていた、5月最後の週のある日のことだ。
武藤氏から唐突に、会って話がしたいと電話がかかってきた。こちらから訪ねる間もなく、日本橋の店に姿を現した武藤氏は会議室で大西さんと向かい合った。話は3時間に及んだ。自身のこれまでの経験、会社の状況、そして健康状態の懸念について語ったあと、こう切り出した。
■「もう時間がない、今ここで決めてくれ」
「大西、伊勢丹の社長をやれ。もう時間がない、今ここで決めてくれ」
淡々としながらも、言葉は切迫感を含んでいた。三越と伊勢丹を経営統合に導いた武藤氏の後継とはつまり、ゆくゆくは国内最大の売上高となる百貨店のトップである。社内からも取引先からも、「99%有力と目されていた社長候補がいた」(大西さん)。衝撃を飲み込む一瞬の間をおいて、大西さんは答えた。
「わかりました。やらせていただきます」
販売員からバイヤー、新規事業開発、マレーシアの新店運営、メンズ館の立ち上げなど、それまで現場で試行錯誤してきたことの延長線上に「権限があればもっとできることがある」、そう直観したからだ。社長打診からわずか1週間後の6月1日、取締役会で伊勢丹7代目の代表取締役社長として昇格人事が承認された。
それから7カ月後の2010年1月、武藤氏は多臓器不全のため死去した。64歳だった。
■総合スーパーと変わらない百貨店の営業利益率
当時は、大丸と松坂屋が経営統合するなど百貨店業界の合従連衡が加速していた。その中でも「伝統の三越」と「革新を尊ぶ伊勢丹」というまったく異なる2つの百貨店の統合は、端から困難の極みとみなされた。それは、メインバンクの主導によって強行的に進められたという理由だけではない。戦後日本の経済成長の原動力となった、年功序列・終身雇用・企業内組合という日本型経営によって築かれた「岩盤の壁」に、真っ向から立ち向かわなければならないことが明白だったからだ。
大西さんは、組織の頂点に立つというより、現場の実感を後ろ盾にして物事を動かしていくプレーヤー感覚のリーダーだった。
社長に就任して真っ先に取りかかったのは「仕入れ構造改革」だ。
「ものづくりの現場から販売に至るまで、商社や卸問屋、アパレル業者など3つか4つの中間業者が入り、その分のコストが上乗せされていく。
結局お客さまには原価の3倍くらいの価格で買ってもらうことになるうえに、百貨店の利益率はものすごく低い。サプライチェーン全体を改革しなければいけない。できれば(自分で)やりたいとずっと思っていました」
百貨店の営業利益率は平均3~5%台で、薄利多売型のGMS(イオンなど)の2~3%台とほとんど変わらない水準にある。専門小売店(ユニクロなど)の15%前後、高級スーパー(成城石井など)の10%台、不動産賃貸型商業施設(アウトレットなど)の15%前後と比較しても低いことがわかる。一方で、代表的な海外ブランドで比較すると、ルイ・ヴィトンやディオールなどを展開するLVMHモエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトングループ全体の営業利益率は26%前後である。
■百貨店が「場所貸し」のままでいいのか
百貨店で扱う多くの商品は、実際に売れた分だけを「仕入れ」とし、残った分はメーカーが引き取る「消化仕入れ」の形態が中心だ。低い利益率と引き換えにしても、百貨店は経営リスクを抑えつつ、中間業者に頼ることで豊富な種類の商品を並べることができる利点を享受してきた。だが、売り上げ低迷が続く中で、いよいよ限界が見えてきていた。
可能な限り中間業者を排し、生産業者とオリジナル商品を企画して商品を全量買い取り、在庫・販売の責任とリスクを百貨店側が負う。大西さんは、この買取仕入れの割合を衣料品全体の3割にまで引き上げようと目標を掲げた。それ自体は決して新しいことではない。1970年代のはじめごろまで百貨店は「買取仕入れ」を主流としてきた。
だが、時代とともに「小売の王様」に君臨するようになった百貨店は経営効率の重視に偏り、いつしかリスクを負うことを避けるようになっていた。プロ意識で商品を厳選するセンスや先見性、販売力ではなく、効率・効果的に集客力を発揮してくれるブランド誘致=場所貸しに重心が移っていった。伊勢丹にも同様の課題があったが、大西さんの目には、伊勢丹の3倍の歴史のある三越は、その筆頭のように映っていた。
■「あいつら一体何をやってるんだ」
伊勢丹では1996年から、婦人服で自主編集型の売り場「リ・スタイル(ReStyle)」を運営してきた。最先端のファッション、国内外の新進気鋭のデザイナー、ヴィンテージ品などを独自の切り口で演出し、トレンドを創出・発信する。まだ知られていない才能あるデザイナーやブランドを発掘する目利きの高さに定評があり、特定のブランド目当てだけではなく、新たな世界観を求める顧客を引きつけてきた。
三越と伊勢丹が統合した当時、三越に入社して3年目だった元バイヤーの男性(42)は、伊勢丹バイヤーと出張先で一緒になった同僚たちが、伊勢丹社員の仕事ぶりに圧倒されていた様子を鮮明に覚えているという。
「早朝から生地がどうだ、色やデザインがどうだって話し合いながら、買い付けや生産者とのミーティングに忙しそうに走り回っている。あいつら一体何をやってるんだって。かたや三越はブランドや業者との接待が多かったので。伊勢丹との仕事のレベルの差を思い知らされた」と振り返る(元三越社員)。
伊勢丹が強みとした自主編集売り場は、直接生産者とつながる「買取仕入れ」が中心だったが、割合としては婦人服全体の2~3%にすぎなかったという。
「仕入れ構造をもっと大胆に変えて原価を下げ、利益率を高めるには、一定のロット(数量)を確保する必要があります。伊勢丹としては、全国に店を展開していた三越と統合する一つのメリットがそこにありました。ですが大元のところでは、百貨店の人間があまりにリスクを取らなさすぎる現状を変えたい。そういう思いのほうが、先に立っていましたね」と大西さんは振り返る。
■先代が果たせなかった夢を継いで
改革を急いだのにはもう一つの理由がある。「地方をなんとかしなければ」という焦りだ。消化仕入れ型の流通構造においては、店頭で売れず返品が増える→取引先がモノ作りのコストを抑制する→モノ作りの現場にしわ寄せがいく→日本のモノ作りが衰退する――という悪循環に陥っているという認識だ。
「高い技術のあるアパレルの生産拠点の多くは地方にある。This is Japanのような、日本のモノをしっかり売っていく。都市型の百貨店が商品を仕入れた時点でつくり手に少しでも多くお金を回していく仕組みにしなければ、日本のものづくりは続かなくなるという危機感がありました」
実は、流通構造の変革は、前任の武藤氏が伊勢丹常務時代に先例を作っていた。伊勢丹から社内ベンチャー的にアパレルメーカーを立ち上げ、自ら工場を持って繊維を扱い商品を卸す事業を始めたのだ。
「武藤も、サプライチェーンに対する問題意識ですよね。その新会社で開発した商品を一番最初に扱ってくれたのは神戸大丸なんです。(身内の)伊勢丹じゃなかった。だから神戸大丸には足を向けられないって、武藤はよく言っていました。新しいことで社内的にも難しかったのでしょう。結局、その会社は大失敗に終わるのですが、百貨店がものづくりに入っていかなければいけない、という考えは武藤とずっと共有してきたものです」
常務の武藤氏が立ち上げたアパレルメーカーの商品を、他社が最初に仕入れたという出来事から、大西さんはすでに「改革は内側から阻まれる」という予兆に触れていたことになる。
■「ミスター百貨店」は、なぜ失敗したのか
仕入れ構造改革によって、三越伊勢丹全体の買取仕入れの割合は5年間で婦人服のおよそ2割にまで引き上げられた。だが、現場を去って8年。「現在、取り組みはだいぶ後退したと聞いています」と大西さんはいう。
地方店のネットワークを生かした素材調達や商品開発の独自体制が浸透するまもなく、相次ぐ地方店の閉店によって、改革に向かう原動力そのものが奪われていった印象は否めない。
コロナ禍が明け、円安効果で集めた外国人客と富裕層向け外商が活況を呈する足元で、課題の本丸が見えにくくなったのではないだろうか。何よりも、新宿伊勢丹においては、長年のポリシーを覆し、世界統一のブランドコンセプトで多大な集客力を誇る「ルイ・ヴィトン」に門戸を開くことになったことが、目指した改革の行き詰まりを物語っている。
大西さんが「ミスター百貨店」と称されたのは、手掛けた改革の中身がどれも、業態全体が抱える構造的問題の核心部分に堂々と切り込むものだったからに他ならない。仕入れ改革の他にも、営業時間の短縮、販売職への成果報酬制度の導入など、スローガンにとどまらない具体的な変革に着手し、業界に大きなインパクトを与えた。だが、大西さんは最終的に、身近な経営陣、中間管理職、そして労働組合から突き上げられる形で退陣に追い込まれることになる。
何が見え、何が見えていなかったのだろうか。
■徹底した“売り場主義”が仇に
「大西さんは現場によく足を運んでコミュニケーションをとっていたけど、中間管理職との対話が不足していた」
ある役員に、大西さんはこう言われたという。
「確かに、1週間の中でやっぱり現場に出る時間が多いし、外で人に会う機会も多いので、おのずと執行役員や管理職と話せる時間は限られていました。どうにか時間を作ってくれと頼まれて、土曜日にようやく対応するという状況。そういう仕事の仕方をしていたのがやっぱりダメでしたね。
日本の企業には段階というのがあって、それに従うと意思決定がどんどん遅れていくんです。フラットにしてやっていくべきだと、今でもそう思っているんですが、私の考えが甘かったということですね」
三越と伊勢丹は統合によって、当時総勢1万5000人を超える巨大組織となった。互いの組織風土の壁を溶かすこともままならないうちに、現場感覚を前面に打ち出したスピード改革が次々と実行に移されていった。
だが、図体が大きくなった組織の中で、人の意識や体質がすぐに変わるはずもない。経営幹部のみならず、中間管理職や中間業者に位置する人々の内心に「ないがしろにされた」、という負の感情が広がっていった可能性がある。その時、前を向いてただひた走る大西さんの軸足は、現場である売り場、そしてメディアの中にあった。(後編へつづく)
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大西 洋(おおにし・ひろし)
羽田未来総合研究所社長・元三越伊勢丹HD社長
1955年生まれ。慶応義塾大学卒業後、1979年伊勢丹入社。経営企画部担当長、執行役員立川店長、経営企画部長、三越常務取締役を経て2009年伊勢丹社長就任。2012年三越伊勢丹ホールディングス代表取締役社長に就任。2017年3月に退任後、2018年~2025年、羽田未来総合研究所代表取締役社長。
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座安 あきの(ざやす・あきの)
Polestar Communications取締役社長
1978年、沖縄県生まれ。2006年沖縄タイムス社入社。編集局政経部経済班、社会部などを担当。09年から1年間、朝日新聞福岡本部・経済部出向。16年からくらし班で保育や学童、労働、障がい者雇用問題などを追った企画を多数。連載「『働く』を考える」が「貧困ジャーナリズム大賞2017」特別賞を受賞。2020年4月からPolestar Okinawa Gateway取締役広報戦略支援室長として洋菓子メーカーやIT企業などの広報支援、経済リポートなどを執筆。同10月から現職兼務。朝日新聞デジタル「コメントプラス」コメンテーターを務める。
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(羽田未来総合研究所社長・元三越伊勢丹HD社長 大西 洋、Polestar Communications取締役社長 座安 あきの)
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