普及されるや否や多くの戦国大名がこぞって使用したこの武器はとある鍛冶職人、八板金兵衛(やいたきんべえ)の娘、若狭(わかさ)の一大決心によって日本での大量生産が可能となりました。
今回は八板親子に関する火縄銃をめぐるエピソードをご紹介します。
■火縄銃の国産化のために種子島へ
天文12年(1543)、ポルトガル人商人が持っていた火縄銃の威力に興味を持った種子島時尭(たねがしまときたか)はその場で2丁購入しました。そして、火縄銃の国産化に向けて動き出します。
種子島時堯公像/Wikipediaより
時尭は火薬の調合を家臣に学ばせ、火縄銃の国内製造には美濃国にいた刀鍛冶、八板金兵衛にお願いすることにしました。

八板金兵衛の像/Wikipediaより
種子島に招待された金兵衛は火縄銃を解体するとすぐさま製造に取り掛かりました。種子島に招待されるくらい優秀な鍛冶である金兵衛は、火縄銃をほとんど複製させます。
しかし、筒底を塞ぐネジの部分だけが製造できず金兵衛は困り果てていました。当時の日本にはネジの観念や製造技術がなく、火縄銃の国内製造は困難を極めました。
■若狭の決心!火縄銃の国産化に成功する
日に日に頭を悩ませていた金兵衛を見て、16歳だった娘の若狭はある決心をします。それはポルトガル人に嫁ぐことでした。
若狭がネジの情報を持っているポルトガル人に嫁いだことで、特許に相当する技術を知り得た金兵衛は天文14年(1545)に国内初の国内製造に成功しました。
若狭は国内初の国内製造がされる前年の天文13年(1544)に外国から帰って来ており、その後亡くなったとされています。

若狭の墓所/Wikipediaより
火縄銃の国産化に大いに貢献した若狭は日本で初めて国際結婚を行った人物でもあります。若狭の父に対する想いが歴史を大きく変えました。
こうして火縄銃は堺(現在の大阪府)や国友(現在の滋賀県)など本州で量産されることになり、全国の有力大名が火縄銃に目を付けることになるのでした。
■最後に
火縄銃の普及にこうした裏事情があったとは正直知らなかったので、驚きでした。
歴史の裏では八板親子のようにあまり語られことのない話があるので、更に歴史に興味が湧いてきました。2人が戦国時代に与えた影響は予想外に大きいと思いました。
参考:島崎晋『ざんねんな日本史』
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan