日本で唯一(アジアでなく)オセアニア圏に属するだけあって、南国情緒にあふれる多彩な自然や、「東洋のガラパゴス」とも呼ばれる独自の生態系を30余の島々につけられた小笠原というネーミングには、どのような由来があるのでしょうか。
今回は小笠原諸島の名づけ親?となった、江戸時代のとある浪人のエピソードを紹介したいと思います。
■祖先の見つけた南の島を求めて
時は享保十二1727年、南町奉行所に現れた一人の浪人。
ちょっと胡散臭いのはご愛敬(イメージ)
彼の名は小笠原貞任(おがさわら さだとう)、通称は宮内(くない)。持参した「辰巳無人島訴状幷口上留書(たつみぶにんじまそじょうならびにこうじょうとめがき)」を徳川幕府に提出しました。
その書面には、以下のような主張が記されています。
「拙者の曽祖父である小笠原貞頼(おがさわら さだより)は、かつて神君・徳川家康公より『多年の戦功により、南海に島があれば与えるゆえ自由に探してよい』とのお許しをいただき、果たして南海を探検して無人島(ぶにんじま)を発見し、その領有が安堵された。よってその権利は貞頼の子孫である拙者が相続すべきなり云々……」
さて、この小笠原貞頼とは、一体どのような人物なのでしょうか。
■小笠原貞頼のプロフィール

小笠原氏 略系図
小笠原民部少輔又七郎貞頼(おがさわらみんぶしょうゆう またしちろうさだより)とは、武田信玄のライバルとして知られる信濃国(現:長野県)の戦国大名・小笠原長時(おがさわら ながとき)の曾孫で、長元(ながもと)の次男として生まれました(諸説あり)。
隣国の甲斐(現:山梨県)より武田信玄の侵攻に対して果敢に抵抗したものの、やがて国を逐(お)われて三河(現:愛知県東部)へ逃げ込み、徳川家康に仕えます。
それからは徳川の家臣として甲州征伐や小田原攻め、朝鮮出兵(文禄の役)など数々の戦陣で活躍しましたが、なかなか所領を得られずにいました。

「いつンなったら、ウチの殿サマは褒美が貰えるずらか」「知らなー」
身命を賭しての槍働きはボランティアや道楽ではなく、かかるコストも自腹なので、安定した収入源がない状態では、武具や兵糧、兵員の調達すらおぼつかぬ……貞頼は、二度目の朝鮮出兵を命じられた折に、意を決して申し出ます。
「畏れながら……」
これまで何を命じても嫌な顔一つせず、二つ返事であった貞頼の発言に、さすがの家康もいささか気にかかります。
「ん……民部か。いかがした」
貞頼がこれまで十数年、数々の戦功にもかかわらず故郷の信濃に帰らず、所領が得られないこと、そして安定した収入源がないままでは、今後存分な奉公が叶わないことを訴え出ると、家康は言いました。
「……言われてみれば確かにそうじゃな。と言って、信濃の領地は他の者に与えてしまった……よし、南の海に島などあるやも知れんから、もし見つけたらその地を所領として取らせよう」
「ははあ、有難き仕合わせにございまする」

まだ見ぬ新天地へ、いざ出発(イメージ)
そんな曖昧すぎる約束でも、一縷の望みに賭けたい貞頼はさっそく南海探検に出航。果たして三つの無人島を発見し、家康のとりなしによってその領有を太閤・豊臣秀吉から安堵されたと言われています。
その後も貞頼は忠勤に励み、戦乱の終焉を見届けて寛永二1625年に天寿を全うしました。
【後編に続く】
※参考文献: 坂田諸遠編『小笠原諸島紀事』国立国会図書館デジタルコレクション、明治時代
田畑道夫『小笠原島ゆかりの人々』文献出版、1993年2月
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