戦国ファンなら誰もが一度は興味を持つであろう「桶狭間(おけはざま)の戦い」。

時は永禄三1560年5月19日、尾張国(現:愛知県西部)をどうにかまとめた程度の弱小大名に過ぎなかった織田信長(おだ のぶなが)が、駿河・遠江・三河の三ヶ国(現:伊豆半島を除く静岡県&愛知県東部)を支配して「海道一の弓取り」とも称せられた戦国大名・今川義元(いまがわ よしもと)を撃破した大逆転劇は、多くの作品を通じて現代の私たちにカタルシスを味わわせてくれます。


(※昨今では研究が進んで「別に逆転劇でもなかった」「むしろ織田軍の方が有利な状況だった」などの指摘もありますが、その詳細は別稿に委ねます)

桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った服部小平太と毛利新介…その...の画像はこちら >>


今川義元を倒した服部小平太(右)と毛利新介(左、義元の背後からしがみついている武将)。歌川豊宣「尾州桶狭間合戦」明治十五1882年

さて、今川義元を倒したのは服部小平太(はっとり こへいた)と毛利新介(もうり しんすけ)という信長の馬廻(うままわり。親衛隊)。歴史ファンであれば彼らの名前くらいは知っていますが、桶狭間前後の生涯についてはあまり知られていないようです。

そこで今回は、この服部小平太と毛利新介の生涯を紹介していきたいと思います。

■服部小平太のプロフィール・誕生から桶狭間まで

【実名】服部一忠(はっとり かずただ)
【通称】小平太(こへいた)
【別名】春安(はるやす)、忠次(ただつぐ)
【生没】生年不詳(天文九1540年前後?)~文禄四1595年7月
【官位】従五位下采女正
【主君】織田信長⇒羽柴秀吉⇒豊臣秀次
【家族】弟:小藤太(ことうた)、次男:勝長(かつなが)

桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った服部小平太と毛利新介…その後の人生どうなった?【一】


小平太の生まれた年は不明ですが、地元・尾張の生まれで信長の馬廻に取り立てられていることから、良家の子弟として奉公に出され、桶狭間の戦い(永禄三1560年)時点で10代半ば~20代半ばの血気盛んな年ごろ(天文四1535年~天文十四1545年ごろの生まれ)だったと推測できます。

馬廻はいざとなれば文字通り、身体を張って主君の楯となる役目があるので、身体は強健、武芸にも鍛錬を積んでいたことでしょう。

小平太という通称から察するところ、平氏の家柄で父親は「平太郎(平氏の家の太郎)」、その子だから「小平太」と呼ばれたものと考えられます。

では弟の小藤太は藤原氏の末裔(藤原氏の太郎の息子)ではないのか、という疑問も湧いてきますが、こちらは母親が藤原氏の家から嫁いで来たのかも知れません。どちらが正室か側室かは不明です。

桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った服部小平太と毛利新介…その後の人生どうなった?【一】


第13代室町将軍・足利義輝。Wikipediaより。


信長の戦歴に照らし合わせると桶狭間の戦いが初陣と思われますが、もしかしたら永禄1558年11月2日の織田信行(おだ のぶゆき。信長の実弟)の暗殺に立ち会ったり、翌永禄二1559年2月2日の初上洛および室町将軍・足利義輝(あしかが よしてる)との謁見に同行したりしたのかも知れません。

さて、次回はいよいよ桶狭間の決戦。そして大活躍の後は、どんな運命が待っているのでしょうか。

【続く】

参考文献

  • 谷口克広『織田信長家臣人名辞典』 吉川弘文館、2010年10月27日
  • 橋場日月『歴史群像 織田信長と戦国時代 信長が寵愛した八人の側近たち』学研、2014年11月

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