その者の名前は三浦義意(みうら-よしおき)であり、平安時代から続く三浦家の分家である相模三浦家の最後の当主と称される人物です。
今回は義意のことを鬼と呼んでもいいような伝説級の話を紹介します。
三浦義意/Wikipediaより
■規格外な身長だった
義意は明応5年(1496)に生まれます。父の三浦道寸(みうら-どうすん)は北条早雲と対立中だったため、義意は家督を譲られた15歳の頃になると1人の武将として戦場に赴くことになります。

三浦道寸/Wikipediaより
ここで驚きなのが、義意は身長です。戦国時代の平均身長は154センチですが、義意は2メートル27センチもありました。
当時からしてみれば義意のような大柄な武将がたたずんでいたら、味方は心強いと思い、敵は恐怖におののいたことでしょう。
また、永正10年(1510)から永正13年(1513)の3年間にわたって早雲と雌雄を決した新井城の戦いでは、鉄の厚さが6センチの鎧を着て戦ったと言われています。
しかし、本来の鎧の厚さは3センチで、上記の厚さだと重すぎるので創作だったのではないかと考えられています。義意の体格だと厚さ6センチの鎧も難なく着て戦ったと思ってしまいそうですね。
■武器には棍棒
義意は戦では刀や槍ではなく金砕棒(かなさいぼう)を使って戦っていました。金砕棒という聞きなれない言葉ですが、鬼が持っている金棒をイメージしていただけるとしっくりくるかと思います。
金砕棒は刀の斬るや槍の突くとは違った「叩く」に特化した武器で、攻撃を受ければ衝撃は凄まじいものでした。

金砕棒を持った武士/Wikipediaより
そんな武器を義意は3メートル64センチの長さで扱っていました。2メートルを越える身長と3メートルを越える金砕棒を持った義意を見たら、鬼が現れたと思ってしまいますね。
■数多の敵兵を薙ぎ倒す剛力と武勇
義意の武勇は想像を優に超えるもので「八十五人力の勇士」の異名を持っていました。その異名の通り義意は新井城の戦いで鬼の如き戦いぶりを発揮します。
一薙ぎで5~10人を討ち死にさせた義意は最終的には約500人を討ち取る活躍を見せました。
しかし、義意は満足したのかその後自らで首を刎ね、鬼の如き活躍した猛将は21歳で自害しました。
■最後に
ここまでの義意の特徴や活躍を見てみると、鬼が現世に降り立ったと思わざるを得ないですね。他の追随を許さない武勇を持ちながら若くして自害したのが惜しいところです。
もしその後も生きていたらと考えると、義意は北条家の脅威となっていたかもしれません。
三浦義意
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