鎌倉時代に活躍した女武者・坂額御前(はんがくごぜん)は、鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡(あづまかがみ)』によれば、「陵薗の妾(りょうえんのしょう。哀れな美女の代名詞)」と評された美貌を持ちながら、なぜか現代では醜女(しこめ)キャラに設定されてしまっています。
本当は美しかった彼女が、一体どういう誤解でそんな事になってしまったのでしょうか。
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美女って記録にあるのに!鎌倉時代の女武者・坂額御前が醜女キャラに設定されてしまったのはなぜ?【上】
■坂額御前とほぼ同時期に活躍した美しき女武者・巴御前の存在
その謎を解く手がかりとして、ほぼ同時代に活躍した女武者・巴御前(ともえごぜん)の存在が大きいでしょう。
揚州周延「粟津原合戰 畠山重忠 勇婦巴女」明治時代
源平合戦における悲劇の英雄・木曾義仲(きその よしなか)の愛妾(諸説あり)として常に寄り添いながら、馬上から薙刀を振るって戦場を駆け抜けた美しき女武者は、坂額御前とほぼ同時期(※)に活躍したため、後に女武者の代表的存在として「巴坂額(ともえ はんがく)」と並び称されることもあります。
(※)と言っても、坂額御前の活動時期が建仁元1201年、巴御前は治承四1180年~寿永三1184年と20年近い差がありますが、「平安・鎌倉期の武士」として大まかにカテゴライズされたのでしょう。
巴御前と坂額御前……当初は「どちらも美しかった」と伝えられていたのでしょうが、やがて後世の人間が、彼女たちを題材とした物語を創作するに当たって「キャラ被り」を気にしたのかも知れません。
「どちらも美女」より、美女と醜女の「凸凹コンビ」の方がストーリーを作りやすそうですし、近づきがたい美女ばかりより、醜女キャラもいることで感情移入しやすいでしょう。
しかし、それなら巴御前を醜女キャラに設定してもよさそうなものですが、なぜ坂額御前が選ばれたのでしょうか。
■作者のご都合主義……醜女に設定するなら、どっちが低リスク?
その動機をハッキリと書いた作者のコメント等は残っていませんが、容易に推測できる理由としては「坂額御前の方が、名前被りのリスクが低い」ことが挙げられます。
「ともえ」ちゃんは巴のみならず、友枝、朋絵、朝恵など実在女性の名前として広く使われていますが、「はんがく」ちゃんの使用例は、寡聞にして知りません(もし万が一いらっしゃいましたら教えて下さい)。
もし巴御前を醜女キャラに設定してしまうと、多くの「ともえ」ちゃんがいじめられてしまうかも知れない……少なくとも「ともえ」ちゃんとその親しい人たちが、その作品を好きになってくれる可能性は限りなく低いでしょう。

男勝りの怪力で、敵の城門をぶち抜く坂額御前(と、恐れおののく敵の武者たち)。歌川国貞「斑額」江戸時代。
一方で、坂額御前が醜女キャラであっても、実在しないであろう「はんがく」ちゃんが傷つき、反感を買うリスクは限りなくゼロに近いので、遠慮なく設定できる……そんな事情があったものと考えられます。
坂額御前としてみればイメージダウンもいいところですが、ともあれ後世の浄瑠璃や歌舞伎、浮世絵など多くの作品では男勝りのガサツな女性として描写され、水戸藩『大日本史』など後世の書物でも醜女としての評価が定着していきました。
■終わりに
そんな凸凹コンビなキャラ設定が受けたのか、すっかり醜女キャラが定着してしまったようにも見えますが、現代は幅広い文献が自由に調べられるので、坂額御前が美女だったことを知っている人も多くいます。
こうしたステレオタイプに描写されたキャラクターも、従来のイメージにとらわれず興味を持って調べてみると、新たな発見が楽しめるでしょう。
【完】
※参考文献:
貴志正造『全譯 吾妻鏡 第三巻』新人物往来社、2011年11月
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