「時代劇じゃあるまいし、忍者なんて近世以前の遺物じゃないの?」
そう思われる方も多いでしょうが、今回は明治維新の戦場を駆け抜けた忍者たちのエピソードを紹介したいと思います。
■プロローグ・甲賀忍者の活躍
歴史上、最も有名な忍者流派の一つとして知られ、伊賀(いが)流と並び称される甲賀流(こうかりゅう。よく伊賀と続けて「こうが」と呼んでしまいますが、正式には濁らないそうです)。
平安時代以降、東国へ向かう交通の要衝である甲賀の地(現:滋賀県甲賀市、湖南市)に土着した武士たちが永く独立状態を保つ中で、後に甲賀流忍術の元となる独自の武芸を発展させたと言われています。
野良着は世を忍ぶ仮の姿
普段は農作で生計を立てながら、自分たちの作った薬を行商して諜報活動を展開。いざ有事には情報と技量を活かした工作活動を遂行しました。甲賀流の特色としては手妻(てづま。奇術)と薬の扱いに長じ、女性の忍者がいなかったことでも知られています。
戦国時代には六角(ろっかく)氏の盟友として室町幕府の追討軍を撃退(鈎-まがりの陣:長享元1487年~同三1489年)、敵軍の後方攪乱や地の利を活かしたゲリラ戦法など、大いに活躍したそうです。
■武士への復帰を目指した甲賀古士たち
しかし永禄十一1568年、六角氏が織田信長(おだ のぶなが)に敗れ去った後は信長に臣従を余儀なくされ、その政権を継承した羽柴秀吉(はしば ひでよし)によって改易(領地を没収)されてしまいます。
この改易騒動は後世「甲賀ゆれ(天正十三1585年)」と呼ばれましたが、平安時代より数百年の永きにわたって甲賀の地を代々支配してきた彼らにとっては、よほど激震的な出来事だったのでしょう。
一部の者は甲賀の新たな支配者となった中村一氏(なかむら かずうじ)や他国の大名に仕えるなど武士の身分を保ったものの、ほとんどは仕官も叶わず平民に身を落とすこととなってしまいました。
「……我らは平安以来の甲賀武士ぞ!たとえ平民に身を落とそうと、その誇りを忘れるな!」

貧乏しても、誇りは捨てぬ甲賀古士(イメージ)。
そんな誇りから「甲賀古士(こうかこし。古くは武士であった者)」と称した彼らは、時代も移り変わって江戸時代に入ると、武士身分への復帰を目指して江戸幕府に嘆願活動を行います。
「卑しくも我らが祖先は秘伝の忍術を以て、畏れ多くも東照神君(徳川家康)をお助け奉り……」
甲賀古士たちはいかに自分たちの祖先が卓越した忍術を駆使して亡き徳川家康(とくがわ いえやす)を助け、手柄を立てたかをアピールしましたが、その努力が実ることはありませんでした。
「……いや、そんな大昔の、証拠もないことをそれっぽく言い出されても……そもそも、忍術分野だったら身元が確かで忠義に篤い伊賀流の者たちがいるし……(江戸幕府・心の声)」
一応、江戸幕府にも関ヶ原で武功のあった甲賀衆の子弟から取り立てられた甲賀組(こうがぐみ。こちらは濁って呼ばれる)が組織され、大坂の陣でも高性能の大砲を鋳造する功績を上げたものの、数ある鉄砲百人組の一つに過ぎず、時代と共に窮乏していました。
(※余談ながら、甲賀出身者は傘張りに巧みとの評判だったそうで、手妻の技術が活きたのかも知れません)
■武士になれる最後のチャンス!甲賀古士たちの決断は?
「うぅむ……やはり忍術分野は伊賀流の独壇場。さりとて他に武士としてのアピールポイントもないし、もはや仕官は難しいかも知れんな……」
一度トーンダウンしてしまうと、今度は甲賀古士の結束が乱れて内輪もめが起こり、嘆願活動はグダグダになっていきました。
しかし、彼らの活動によって、それまで秘伝の存在とされていた「甲賀忍者」のイメージが江戸社会に普及。やがて伊賀流のライバル?として現代にまで伝えられているのですから、その努力は決して無駄にはならなかった筈です。

後世に伝わった甲賀忍者のイメージ。徳川幕府のお抱え≒正義役である伊賀忍者のライバル?故か、悪役っぽい設定が多い。
とは言うものの、評判だけでは腹も膨れず「武士(忍者)は食わねど高楊枝」と見栄を張るにも限界があります。
「……どうじゃろう。もはや徳川に仕官の望みなければ、錦旗の下(官軍=新政府軍)へ従わぬか」
時は慶応四1868年1月。旧幕府軍と新政府軍が京都の鳥羽・伏見で本格的な戦闘に突入。後世に言う「戊辰戦争」の幕が開けたのでした。
「その方、正気か?我ら甲賀古士は、畏れ多くも東照神君以来……」
「はっ!……そんなモン『作り話』じゃろ?徳川に取り入るための」
「ぐっ……」
「よぅ考えてみぃ。そもそもわしら、武士になりとぅてこの二百年ばかり、ずっと徳川に媚びへつらって来たんじゃろうが……かつて苦楽を共にした六角の殿サンならともかく、別に何の縁もゆかりもない、まして武士に取り立ててすらくれなんだ徳川に、いったい何の義理があるんじゃ」
「うぅむ……しかし……」
「それに、今回の相手は天朝様(朝廷=天皇陛下)より賜った錦旗(きんき。錦の御旗)を掲げし官軍ぞ。刃向かえば即ち賊軍。その汚名を着せられてまで、徳川に味方する義理があるのか?」
「……」
「決まりじゃ。我ら甲賀古士、みな挙(こぞ)って天朝様に御味方致そう!」
「「「おぅ!」」」
かくして徳川家を見限った甲賀古士は、新たな世で武士となる望みを賭けて旅立ったのでした。
【次回に続く】
※参考文献:
藤田和敏『〈甲賀忍者〉の実像』吉川弘文館、2011年
大山柏『戊辰戦役史 上下』時事通信社、1968年
和歌山県立文書館「文書館だより 第36号」和歌山県立文書館、2013年
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