そこでさっそく家臣たちに築城を命じましたが、いつもいいところで斎藤方によって妨害され、何度やっても失敗してしまいます。
苛立つ信長に「私が成功させてみせましょう」と名乗り出たのが、まだ身分の低かった木下藤吉郎秀吉(きのした とうきちろうひでよし)。
秀吉は墨俣を流れる木曽川の上流で、斎藤方に気づかれぬよう木材を伐採。組み立てられるよう加工した状態で川に流し、下流の墨俣で引き上げるとすぐに組み立ててしまいました(現代で言うプレハブ工法の走りでしょうか)。
見事に城を築いた秀吉(左)と感心する信長(中央)、そして嫉妬する家臣たち。「豊臣勲功記 木下須股城ヲ一夜ニ建築之圖」より。
まるで一晩の内に城砦が出現したような早さで完成したため、信長はじめ世の人は「墨俣の一夜城」などと呼んで奇想天外な秀吉の才覚を賞賛。立身出世の足がかりとなったのだった……と言われています。
筆者も子供の頃からマンガや時代劇などで慣れ親しみ、「すごいアイディアだ!秀吉って、何て頭がいいんだろう!」などとワクワクしたものでしたが、実はこのエピソード、フィクションだったそうです。
そう言うと、中には「そんな事ないよ!だって大河ドラマでもやってたし、あくまで『諸説アリ』ってヤツでしょ?」というご意見もあるかと思いますが、墨俣一夜城が明らかにフィクションである根拠が、史料に示されていました。
■秀吉が築く前から存在していた墨俣城
冒頭、秀吉が墨俣に一夜城を築いたのは永禄九1566年と紹介しました。
しかし信長の側近・太田牛一(おおた ぎゅういち)がほぼリアルタイムで信長の生涯を記した『信長公記(しんちょうこうき)』によると、その5年前の永禄四1561年時点で洲俣(すのまた。墨俣)に砦を構えており、そこを足がかりとして斎藤方と交戦しています。

信長の日常を記録する牛一(イメージ)。
つまり、秀吉が築くまでもなく、墨俣にはとっくに砦があったのです。ちなみにこの砦は後に放棄されていますが、それが5年後になって「あの砦、やっぱり必要だったわ。誰か建て直して?」などと言いだすような信長ではないでしょう。
(もしそうであれば、織田家中の誰かが間違いなく愚痴の一つもこぼし、それが『信長公記』などに残っていそうなものです)
だったら最初からそこを死守させていたでしょうし、そこまでする価値がないと判断したからこそ放棄したと考えるのが妥当です。
■明治時代に登場した新説
それでは「秀吉が永禄九1566年に墨俣一夜城を築いた」という言説がどこから来たかと言うと、明治時代の学者・渡辺世祐(わたなべ よすけ)が、以下に紹介する様々な書物を混ぜ合わせたものです。

『絵本太閤記』より、若き日の木下藤吉郎秀吉。Wikipediaより。
太田牛一『信長公記』※『信長記』は『信長公記』を元に書かれており、一年のズレは恐らく小瀬甫庵の写し間違いと考えられます。
⇒墨俣城砦は永禄四1561年に信長が築いた。
小瀬甫庵『信長記(しんちょうき。甫庵信長記)』慶長十六1611年ごろ
⇒墨俣城は永禄五1562年に信長が築いた。
小瀬甫庵『太閤記(たいこうき)』寛永三1626年
⇒永禄九1566年9月、信長が美濃国の某所に城を築き、秀吉に預けた。
遠山信春『総見記(そうけんき。織田軍記)』貞享二1685年ごろ
⇒墨俣城砦は永禄五1562年5月に信長が築き、秀吉に任せた。
武内確斎(作)&岡田玉山(画)『絵本太閤記(えほんたいこうき)』寛政九1797年
⇒墨俣城砦は永禄五1562年、秀吉が奇策をもって築いた(他の者たちは失敗している)。
時代を追うに連れて墨俣と秀吉を結びついていったようすがうかがわれますが、「秀吉が墨俣城砦を築いた」とする説?は江戸時代後半の『絵本太閤記』が初出であり、そこへ小瀬甫庵の『太閤記』から永禄九1566年9月という日時を引っ張ってきたのが渡辺氏ということになります。
■墨俣一夜城の新証拠?『武功夜話』を巡る論争
これで墨俣一夜城がフィクションとして決着したかと思いきや、歳月は流れて昭和三十四1959年、「墨俣一夜城の新たな証拠」として『武功夜話(ぶこうやわ。前野家文書)』なる古文書が「発見」されました。

『墨俣一夜城築城資料』所収「永禄墨俣記」より、墨俣城の間取り図(模写+注釈)。一間を約1.8mとして、216m×108mの周囲に土塁と堀を巡らし、土塁の上に塀を立てるという大工事となっている。
そこには秀吉が墨俣に一夜城を築いたという「事実」をはじめ、城郭の間取り図や素材に至るまで詳細に記載されていると言います。
しかし、斬新すぎる(現代人でも容易に読める)言葉づかいや表現方法(例えば、地中に埋めた杭の断面図や進軍方向を示す矢印など)、更には戦国乱世にあるまじき危機意識の低さ(軍事機密を子細洩らさず敵に奪われるリスクもある手紙に書いてしまう)などあまりにもツッコミどころが多く、専門家の間では真偽をめぐって論争が絶えません。
※信憑性を持たせようとするあまり、当事者であれば言わなくても(書かなくても)分かることまで事細かに書いてしまったことが、完全に裏目となっています。
中でも、本題の墨俣城については「まさかのサボタージュか!?」とさえ思わせる設計図面となっており、とても戦国武将が御家の命運を賭けて築こうとしたとは思えない欠陥が素人目にも見つかります。

墨俣城間取り図。上の図を整理したもの。中央右寄りの屋敷が本丸、付属の櫓は粗末ながら天守閣をイメージしたのかもしれない。
1) 近くに大きな川が流れているのに、それを天然の堀として利用せず、あえて四方に土塁と堀を設けているため、工事に時間も費用もかかる上、防御力に劣る。
⇒斎藤方の妨害を受けないよう、一刻も早く建てなくちゃいけない筈では?
2) その割に大手口(おおてぐち。正門)や搦手口(からめてぐち。裏門)と言った城門の構造が単純かつ手薄。
⇒土塁や塀を乗り越えるよりは突破しやすく、戦闘が集中しがちな場所なのに?
3)城郭が外壁のみの単層構成で、一度突破されたら中央まで一直線。
⇒せめて本丸部分(上の図なら、屋敷&櫓)を守る内郭(うちぐるわ。複層の防壁)を設けるべきでは?

図面に即した大手口(左)と、改良を加えた大手口(右)。
左は突入を図る者(槍兵)に対して全員が援護(射撃)しやすい一方、守備側はBとCしか矢を射かけられず(距離にもよるが)、一度城門を突破されれば奥深くまで突入されてしまう。……等々、実に非経済的かつ非効率的、そして城塞としては致命的となる非実戦的な欠陥の多い構造となっていますが、唯一の美点を挙げるとするなら「お城としての見栄えがいい」と言ったところでしょうか。
それを右のように改良すると、突入するホ.に対してイ.とロ.のみしか援護(射撃)できない一方、守備側はA~Cが矢を射かけることが可能となる。たとえ城門を突破されても、一度90度方向を変えなければならないため、勢いを若干でも殺ぐ効果が見込める。
四方に巡らされた城壁と堀、堂々と正面を向いた城門……まぁ、天守閣は流石に嘘っぽいので、城内にはそれっぽく施設を散りばめて……そんな図面を墨と筆でサラサラ描けば、戦国時代の「新発見」が一丁上がり。
そんな史料が一部の歴史学者や文化人たちによって無批判に賞賛され、メディアの影響力も手伝って、あれよあれよと市民権を獲得。気づけば大河ドラマや時代劇など、秀吉を語る上で欠かせないエピソードとして定着していったのでした。
■終わりに
かくして幻であったことが分かった墨俣一夜城ですが、個人的にはあまり「騙された!」というネガティブな感情は湧いてきません。
一夜で城を築き上げる奇策が実際に行われたことはなくても、それを思いついた人間がいることは間違いなく、その奇想天外なアイディアこそが歴史物語に触れる者の胸を沸かせてきたのです。

現代の墨俣城。観光用に建てられた施設だが、この辺りで秀吉たちが活躍したのは間違いない。
あの秀吉だったら、このくらいの事はやってのけてもおかしくない……そんなある種の期待感もまた、歴史物語の醍醐味と言えるでしょう。
もちろん、歴史的事実とフィクションはきちんと分けて理解した方がいいものの、フィクションはフィクションとして楽しめるくらいの余裕はあった方が、歴史物語からより多くの学びや感性の刺激を得られることでしょう。
(※あくまで素人としての立場で言っていることを補足しておきます)
※参考文献:
鈴木眞哉『戦国時代の大誤解』PHP新書、2007年5月
藤本正行・鈴木眞哉『偽書『武功夜話』の研究』洋泉社、2014年3月
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