其の國、本亦(もとまた)男子を以って王と爲(な)し、住(とど)まること七・八十年。倭國亂れ、相攻伐すること歴年、乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王と爲す。
名づけて卑彌呼と曰う。鬼道に事(つか)え、能く衆を惑わす。年已(すで)に長大なるも、夫壻(ふせい)無く、男弟有り、佐(たす)けて國を治む……

【意訳】その国は男性の王が支配していたが、七八十年にわたって国が乱れ、争いが絶えなかった。そこで女性も王にした(男性の王とツートップ体制にしたところ、国が治まった)。その女王は卑弥呼と呼ばれた。呪術を用いて人々に神託を与えた。すでに高齢であったが独身で、弟が彼女を補佐して国を治めていた……

『魏志倭人伝(ぎし わじんでん)』で有名な古代の女王・卑弥呼(ひみこ)。その生涯は謎に包まれており、彼女が統治したという邪馬台(やまたいorやまと)国がどこにあったのかさえ、いまだに論争が絶えません。

ヒミコとは姫命(ひめみこorひめのみこと、皇女)の略称、あるいは日御子(ひのみこ)すなわち天皇陛下とする説もあり、皇室の祖先・天照大神(あまてらすおおみかみ)のモデルではないか、などとも言われています。

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鬼道に事え、能く衆を惑わした卑弥呼(イメージ)。

また鬼道(きどう)とは原始的なシャーマニズムと考えられ、神憑(かみがか)りとなった卑弥呼の神託を、弟が実務的な政治に反映させることで、人々は「神様が仰るのなら」と納得、国も安定したのでしょう。

そんな卑弥呼の活動時期については諸説ありますが、『三国志』『後漢書』などによれば、概ね中平年間(184~189年に即位)から正始年間(240~249年に死亡)と見られています。


更に調べていくと、同じ時代の九州地方に田油津媛(たぶらつひめ)という土蜘蛛の女王がいました。卑弥呼と同じく呪術を用いて国を治めており、中には卑弥呼のモデルではないかという説もあるそうです。

田油津媛とは、いったいどのような人物だったのでしょうか。

■田油津媛の率いた「土蜘蛛」について

田油津媛の人物像を探っていく前に、まずは彼女が統治していた土蜘蛛(つちぐも)についてサラッと紹介したいと思います。

土蜘蛛なんてちょっと物々しい感じですが、これは特定の部族名ではなく、日本(倭国)の中央を支配しているヤマト政権に順(まつろ)わぬ=敵対する諸部族に対する蔑称(差別的な呼び名)です。

彼らは建築文化が未発達であったことから、多くの者が自然の洞窟、あるいは山肌を掘って住居としており、そこから出入りする様子を「土籠(つちごも)」、それが転じて土蜘蛛に喩えられたのでしょう。

そんな土蜘蛛一族を従える田油津媛は筑紫国の山門縣(やまとのあがた。現:福岡県みやま市、柳川市)を統治しており、彼女を卑弥呼のモデルと考える方は、山門縣こそが邪馬台国だったのではないかと唱えています。

卑弥呼のモデル?それともライバル?神功皇后に征伐された土蜘蛛の巫女王・田油津媛


数々の武勇伝を残した神功皇后。月岡芳年「日本史略図会 第十五代神功皇后」明治十三1880年

田油津媛が登場する文献は、日本最古の歴史書である『日本書紀(にほんしょき)』。時は仲哀天皇九200年(※)3月、神功皇后(じんぐう こうごう。第14代・仲哀天皇の皇后)によって討ち取られたことが記されているのみです。


(※)神武天皇の即位を紀元前660年として、記紀神話を元に割り当てています。

……丙申、轉至山門縣、則誅土蜘蛛田油津媛……
※『日本書紀』巻第九より。

【意訳】丙申の時(日にち?)に神功皇后は山門縣にやって来て、土蜘蛛の田油津媛を退治した。

どういう理由で退治されてしまったのかは不明ですが、恐らくは叛乱を起こして鎮圧されたものと考えられます。

だとしたら、なぜ田油津媛は叛乱を起こしたのか?詳しい動機については記録がないものの、叛乱の前後状況を確かめることで、挙兵のキッカケくらいはつかめそうです。

■仲哀天皇に攻められた熊襲への援軍として挙兵?

それでは、叛乱を起こした田油津媛が神功皇后に討たれる少し前の歴史をざっと見てみましょう。

仲哀天皇八199年
9月 仲哀天皇が南九州の熊襲(くまそ)討伐に出陣するも、敗れる

仲哀天皇九200年
2月 矢傷が元で仲哀天皇が崩御する
3月25日 熊襲を討った神功皇后によって、田油津媛が討たれる

仲哀天皇八199年9月、神憑りとなった神功皇后は、仲哀天皇(ちゅうあい てんのう)に「熊襲よりも先に、海を渡って新羅(しらぎ。朝鮮半島の古代王朝)を攻めよ」と神託を授けます。

しかし、仲哀天皇はせっかくのご神託を聞かず「まずは手近な方を」とばかり熊襲を攻めます。この時、九州北部を支配していた田油津媛は、南方の熊襲に援軍として挙兵したのかも知れません。

卑弥呼のモデル?それともライバル?神功皇后に征伐された土蜘蛛の巫女王・田油津媛


志半ばにして崩御(陣没)された仲哀天皇。Wikipediaより。


そして神意に背く者に勝利はなく、仲哀天皇は戦さで矢を受けて敗走。そのまま寝込んでしまい、翌年2月に陣中で崩御してしまいました。

「ヤマト政権、恐るに足らぬ!者ども、一気に撃ち滅ぼせ!」

熊襲の士気が上がったであろうことはもちろん、援軍の田油津媛たちも、得意?の呪術を駆使して一気にヤマト軍を惑わそうと張り切ったことでしょう。

しかし、仲哀天皇に代わって指揮を執った神功皇后は、瞬く間に熊襲を討ち滅ぼし、また田油津媛の呪術をも打ち破ってしまいます。

呪術を破られてしまった田油津媛はあえなく討ち取られ、援軍として向かっていた彼女の兄・夏羽は「妹が敵わぬ相手では太刀打ちできぬ」とばかり逃げ去ってしまったそうです。

かくして熊襲を討ち平らげ、九州地方を平定した神功皇后は日本の全国制覇を果たし、やがて海を渡って三韓(朝鮮半島の三王朝)征伐に乗り出すのですが、それはまた別の話。

■「誑(たぶら)かしの姫」と呼ばれ……

以上、田油津媛の叛乱について紹介してきました。ところで田油津媛という名前は、本人が名乗ったり、臣下たちが呼んだりした訳ではなく、ヤマト政権による蔑称と考えられています。

田油(たぶら)は戯(たぶ)るの使役形「誑(たぶら)かす」に通じ、津(つ)は記紀神話に登場する神様の名前でお馴染み「~の」に相当しますから、現代語に訳すと「誑かしの姫(媛)」と言ったところです。

卑弥呼のモデル?それともライバル?神功皇后に征伐された土蜘蛛の巫女王・田油津媛


悪名高さは、実力の裏返しか。呪術を駆使してヤマト政権に立ち向かった田油津媛(イメージ)。

田油津媛の駆使した呪術によほど苦戦させられたのか、あるいは呪術に惑わされた?人々からの声望がよほど篤かった(≒ヤマト政権に対する民衆の抵抗が激しかった)のか、いずれにしても彼女の「ただものならなさ」が感じられます。


そんな田油津媛の墓は老松神社(現:福岡県みやま市)の境内にある古墳と伝えられ、かつては彼女を慕う人々によって「女王塚」と呼ばれていたそうですが、皇族の陵墓ではないため、いつしか「蜘蛛塚」と改称されて今日に至ります。

この蜘蛛塚、雨が降ると血を流すとも言い伝えられていたそうですが、悠久の歳月を経て怨みも少しは癒えたのか、現代では血は流れていないようです。

もしかしたら卑弥呼のモデル、あるいはその人、あるいは(モデルの一人である神功皇后の)ライバルだったかも知れない田油津媛の謎について、今後の究明が期待されます。

※参考文献:
和田清・石原道博 編訳『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』岩波文庫、1951年
坂本太郎ら校注『日本書紀』岩波文庫、1995年
金田一春彦『新明解 古語辞典』三省堂、1995年

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