そんな不思議エピソードのいくつかをご紹介しましょう。
月岡芳年『月百姿 破窓月』
■実はインドの王子さま?
達磨大師は、南天竺にある香至国の王族出身とされています。香至国とは3~9世紀に南インドを支配していたパッラヴァ朝の首都カーンチープラムのことで、達磨はカンタヴァルマン2世という王の第三王子とされます。
しかし一方で、達磨は「西域・波斯国の碧眼の胡僧」とする記述もあり、これに従うとササン朝ペルシャ(現在のイラン)出身で青い眼だったと考えられます。
出家して40年の修行ののち船で広州へやってきた達磨は、当時中国の南半分を支配していた梁の皇帝に会い問答しました。
このときのやり取りは禅の修行の最重要テキスト『碧巌録(へきがんろく)』の冒頭に収められています。
■弟子志願者の熱意にドン引きしつつOK
達磨は大河、長江を“たった1枚の蘆(あし)の葉に乗って”渡り、中国の北半分を治めていた北魏の都、洛陽に至ります。そしてのちに拳法で有名になる嵩山少林寺にて「面壁九年」と呼ばれる修行をしました。
これは壁に向かって坐禅をくみ、9年もの間沈黙して微動だにしないというもの。この姿が日本で生まれた縁起物のダルマ人形のモデル。
だるまの目入れをする時期はいつ?右目と左目どちらから入れるの?
坐禅にふけっていたある日、達磨のもとにひとりの僧侶がやってきて弟子にしてほしいと懇願します。達磨が無視しつづけると、その僧はなんと自分の左腕を切り落とし、それを捧げながら熱意を訴えたのです。
驚きつつも願いを聞き入れた達磨は彼に「慧可(えか)」という名を授け自分の後継者としました。この「慧可断臂(えかだんぴ)」はよく禅画や日本画の題材になっています。
■毒殺を6度免れ、7度目で死す?
達磨はその教えに反発する中国僧らに度々毒殺されそうになり、7度目でついに殺されます。享年150歳。
達磨図 清水南山 画
達磨が埋葬されたのちある僧が、片方の履(くつ)を持って西へ向かう達磨の姿を目撃しました。そこで達磨の棺を開けてみると、なんと遺体は消えており、片方の履だけが残されていました。そこで人々は、達磨はインドへ帰ったのだと噂しました。
死んでなお謎を残す達磨大師。
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