臨済宗妙心寺派の法灯を守るため、斎藤義龍、織田信長との確執にも一歩も引かず、最後まで信念を貫いた気骨漢として知られています。
その最期は、信長の要求に屈せず、焼き討ちを仕掛けられた恵林寺にて、毅然とした様子で火炎の中に没しました。そんな快川国師の生涯を紹介しましょう。
■武田勝頼の滅亡と恵林寺の危機
天目山勝頼討死図・歌川国綱画(写真:wikipedia)
織田軍に追い詰められ重臣の裏切りにあい自害した勝頼 1582(天正10)年、武田信玄菩提寺である甲斐国・恵林寺は極度の緊張状態に包まれていました。
その年の2月、武田勝頼討伐に動き出した織田信長は、嫡子信忠を総大将に約3万の軍勢を甲州に派遣します。
織田軍は、わずか1か月で美濃・信濃・甲斐を席捲。追い詰められた勝頼は、天嶮の要害・岩殿城に籠城しようとするも、重臣小山田信茂の裏切りにあい、天目山で自害しました。
ここに清和源氏新羅三郎義光以来の名門・甲斐武田氏の嫡流は滅亡したのです。
織田氏による武田の残党狩りに屈せず武将の逃亡を助けた その後、織田軍は、信長の甲府到着を待って執拗に武田の残党狩りを行います。
当時の甲府には、織田家に敗れた多くの武将たちが身を寄せていました。

武田氏を滅亡させた直後に本能寺の変で自刃した織田 信忠(写真:wikipedia)
なかでも、信長と激しく敵対した六角義貞・三井寺の上福院・淡路大和守が恵林寺に匿われていることを知った信忠は、その身柄の引き渡しを要求します。
しかし、恵林寺は再三にわたりこれを拒否、3人の逃亡を助けたのです。
■僧侶・児童など100人超えの人々を囲み火を放つ織田軍

織田氏の要請を拒否した恵林寺・三門(写真:wikipedia)
恵林寺の敵対行為に激怒した信長は信忠に命じ、恵林寺の僧侶をはじめ還俗、児童まで100人を超える人々を山門楼上に追いやり、兵で囲みます。
そのうえで、山門の周囲に枯れ草を積み上げ、無情にも火を放ったのです。
足元から立ち上る黒煙は、やがて真っ赤な炎となって、楼内の人々を襲いました。
充満する煙と、身を焦がす炎。灼熱の火炎から逃げ惑う人々の断末魔の声で、楼上内は阿鼻叫喚を極めました。
■快川国師、恵林寺山門楼上にて火炎に没す

右の柱に「安禅不必須山水」、左の柱に「滅却心頭火自涼」と記される恵林寺三門(写真:photo-ac)
そのとき、炎の中で悠然と座した一人の高僧の声が響きわたります。
「安禅必ずしも山水を須(もち)ひず 心頭滅却せば火も自づと涼し」
この高僧こそ、恵林寺の住持・快川紹喜(かいせんじょうき)でした。
快川は、弟子たちに山門から脱出することを指示した後、逃げも隠れもせず楼上に残った人々とともに、毅然とした様子で燃え盛る火炎の中に没したといわれています。
その生涯は、いかなる権力にも屈せず、自分の信念を貫き通す剛毅なものでした。
【その2】に続く……
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